| 池宮彰一郎 『平家』 | 
    吉川英治 
    『新平家物語』 | 
  
  
    第2章 p110 
    清盛をはじめ一門の者は、その整理に大童となった。まず、至上(天皇)の玉座に寝殿を当てた。東西の対屋が、公卿・公家・武将・蔵人の控所である。 
    それらは人が溢れて、足の踏み場もない程となった。 
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    左折れ右折れ 
    とりあえず、玉座を、寝殿に。東西の対ノ屋を、公卿、武将、蔵人たちの、控え所に。 
    当然、行幸と同時に、ここは二条天皇の仮宮となったのだが、さしも広い六波羅やしきも、狭さに、ごった返して後から後から伺候する公卿諸官のすわり場もない。 | 
  
  
    ↑「平治物語」などの原典には、二条天皇が六波羅へ行幸したという記載はあっても、天皇や諸官が建物のどこは入ったのかの記載はない。 
    ※文庫版(一)p133では太字箇所の行以下削除。 | 
  
  
    第2章 p142 
    廊下を、塗籠ノ間へ、小走りに走る。と、出合頭に天皇側近、頭中将隆国と突き当たった。 
    「あっ、大弐どの」 
    清盛はこの前八月、播磨守を辞任し、大宰大弐(次官の意、実質的には長官)の職の就いていた。 
    「お、これは中将どの。なんで主上のお側を離れるか」 
    「いや、大弐どの。たいへんなことこそ起りつる、その至上の君が、塗籠ノ間のお見え遊ばされぬ・・・いずこの渡御あらせられたのか」 
    「な、なに?主上が在さぬと?」 
    さすがの清盛も慌てた。 
    かなり離れた正門、二階門ではまた攻防戦が再開されたらしい。海鳴りに似た敵味方のどよめきが、かすかに伝わってくる。 
    ――無理は、ない。この阿鼻叫喚の戦を、初めて身近に体験なさるのだ。おびえて奔られたのであろう・・・。 
    そう感じた矢先、内裏仕えの女房が、渡殿(渡り廊下)を走ってくるのが見えた。 
    「おられまする!至上の君はこちらの奥・・・物の具倉の内にお潜まり遊ばしておられまする!大弐どの、ご安堵なさりませ!」 
    「よし!わかった!」 
    清盛は走った。走って物の具倉の前廊下にすわり、ほの暗い倉の内をうかがった。 
    「・・・大弐か・・・ご苦労である・・・」 
    倉の内に、御着衣の白さがほの見えて、かすかな声が聞こえた。 
    「謹みて言上仕る。たとえどのような事が起ころうとも、この清盛がおります上は、きっと玉体をお守り申しまする。お心安う遊ばしませ」 | 
    逆さ兜の事 
    「だ、大弐どの。たいへんぞよ。ことこそ起こりつる」 
    と、頭中将隆国と、二、三の公卿が、外の矢たけびや、すまじい武者声にてん倒して、塗籠ノ間から、走り出てきた。 
    清盛も気が気ではない。――何よりも、敵の放火を恐れていた。 
    「やあ、何を、騒がれるか。あなた方は、主上お側にあって、玉座をさえ守っておればよいのだ。――なぜ、おそばを離れるか」 
    「いなとよ、大弐どの。その玉座が、塗籠ノ間のお見え遊ばさぬ。・・・主上には、いずこへ、渡御あらせられたのか」 
    「なに?主上がお見え遊ばされぬと?」 
    清盛も、あわてた。 
    (略) 
    「あ、おられまする!主上には、いちばん奥の、物具倉の内へ矢を避けて、お潜まり遊ばしました。――大弐どの、ご安堵なされい」 
    頭中将が、そこへ渡る廊の口で、大きくさけんだ。 
    後から、馳けて来た清盛は、 
    「や。御安泰か」 
    と、がっかりしたように立ち止まった。――が、うす暗い物具倉の内をのぞくと、急に畏まって、外からこう奏上した。 
    「どのようなことがありましても、清盛がおります以上は、お心づよく思し召せ。・・・いで、清盛自身、陣頭に出て、眼にもの見せてくれましょうず」 
     
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    ↑私の知る限り「平治物語」諸本や、その他の原典に六波羅の中で二条天皇が行方不明になったという記載は無い。このような記述は「新平家物語」オリジナルと思われる。 
    ※文庫版(一)p173では太字箇所周辺20行ばかり削除。 | 
  
  
    第2章 p180− 
    「佐殿(頼朝)が!佐殿が見えずになっております!」 
     義朝を始め、一同が吾に返った。いずれの者も兜の眉庇に氷柱が垂れ、まつげに雪をためている。 
    「どの辺から見えずになったか、覚えはないか」 
    「さて・・・」 
    一同は顔を見合せた。 
    「篠原あたりでは、確かにわれらと馬を並べておられました」 
    「そうだ。日野川を渡渉する折やも知れぬ。あの時、列伍を乱したが・・・」 
    振り向く野面は、白一色につつまれていた。 
    「申し訳無きことに相成りました。これはお伴仕まつるわれらの不念。これより日野川まで引返し、お探ししてお連れ申します」 
    と、平賀四郎が言う。 
    「てまえも引返します。大殿は夜の明けぬうち、一里でも道をお稼ぎ下され。青墓の大炊が家で落ち合いまする」 
    佐渡式部重成も馬首を返した。 
    「待て、待て、土地不案内の者がこの上離れては、二重三重の迷い者となる。離れてはならぬ」 
    義朝の声音には悲痛の響きがあった。 
    「ならば大殿、われら打ち揃って引っ返しましょう。若殿方お三方の最後のお一方、佐殿失われては、われらの立つ瀬がございませぬ」 
     | 
    落伍 
    「佐殿(頼朝)がお見えなさらぬ」 
    たれかが、気づいたのは、もうよほど時たっていたとみえ、声をあわせても、呼んでも、待ってみても、なんの答えがないという。 
    「頼朝が、みえぬとか」 
    親心を弾ませて、義朝は、たれかれとなく、たずねた 
    「どの辺から?・・・いつごろ」 
    「篠原では、たしかに、われらと駒を前後して、おいででしたが」 
    「日野川では」 
    「さあ。あの辺りは、吹雪もつよく、おのおのが、渡る瀬を探しあって、列伍を散らしましたから、あるいは、そのおり、遅れあそばしたのかも知れませぬ。――重々われらの落度、引っ返して、お探し申しましょう」 
    佐渡式部と平賀四郎がさらに遠くまで戻ろうというと、義朝の沈痛な声が、急に、否と、止めた。それは三千世界に大雪をふるう空より暗然たるかなしみそ自制をこめた声ではあったけれど、 
    「待て、待て、それには及ばぬ。迷れた者を、いちいち拾って歩けぬのは、落ち武者の負うかなしい慣いだ」 
    と、いった。 
    切々と、雪が鳴る。雪つむじが、複雑な旋律をえがく。飛沫の淵にかたまり合う魚のように、七騎の影は、寄りそった。 
    そして、たれひとり、義朝の面を、見られなかった。兜の眉びさしに氷柱を垂れ、まつげに雪をとめて、うつ向いていた。 
    (略) 
    「若殿方三名のうちでは、お年もいちばん幼く、とりわけお心も優しい佐殿を、この雪中にお見捨てとあっては、一生、御後悔のたねとなり、あわれ酷き親かなと、世の誹りにもいわれましょう。ままよ、あすはあすの運まかせとしても、ここは道を引っ返して、佐殿をお見出し申さねば、われらとて先へ進むにも進まれません。――やよおのおの、手分けして、もう一度、佐殿を呼ばわり給え」 | 
  
  
    ↑「平治物語」によると、頼朝は2回落伍している。1回目は馬上で眠ってしまい落伍。落ち武者狩りを自力で逃れた後、鎌田政家(一本では平賀義信)に発見される。2回目は伊吹山付近で落伍したらしい。「愚管抄」などの他の文献には義朝一行の逃避行については詳しくは書かれていない。 
    池宮平家、新平家共に、頼朝は1回の落伍で完全にはぐれ、しかもそのあと落ち武者狩りに遭っている。 
    ※文庫版(一)p219では前半太字箇所を含む17行ばかりが削除。 | 
  
  
    第3章 p202− 
    夕暮どき、六波羅邸に帰った清盛は、夜陰に兵を動員して、京の辻々に辻立ちを配した。 
    夜明け方、平家の軍勢数百が、御所内に巣食う浮浪を急襲した。※御所=内裏=皇居 
    烏合の衆は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、御所内に捕えられた老若男女は、百人足らずであった。 
    逸早く逃走した浮浪は、水も洩らさぬ辻立ちの網にかかり、その殆どが昼頃までに捕えられた、その数は千人を超えた、かれらは牢獄に送られる代り、また、御所へ引き立てられた。 
    「どうなることか」 
    (略) 
    「腹がふくれたところで、その方どもに申し渡すことがある。一天万乗の君が在りします汚れなき御所に入りこみ、数日にわたっての尾籠、狼藉、不埒千万、言語道断の極みである。その罪万死に値する」 
    腹の満ちた浮浪は、粛然となった。 
    「なれど・・・六波羅様の格別なお慈悲によって、こたびに限り、御赦免と相なる」 
    呻くみょうな安堵の溜息が、広場にどよめいた。 
    「ただし・・・よおく承れ。許してつかわすが、直ちに退散はならぬ。清浄を汚したる段、見逃しにはならぬ。今日ただ今より、清掃に務めよ。打ち壊した戸や窓、その他の個所は応急でよい。修理せよ。・・・酷な使いようはせぬ。疲れたら休め。眠ければ眠らせてとらす。何日かかろうとも、その間は務めさせつぞ。わかったら仕事にかかれ・・・さあ、始めよ!」 | 
    餓鬼国管弦楽 
    「大弐どのが、来る」 
    「六波羅衆がたくさんに来る」 
    と、つたえ、聞いて、前の夜まで、大内裏に巣食っていた無数の浮浪者や群盗どもは、陽を見た蜘蛛の子みたいに、宮苑の森や、御所のここかしこから逃げ散った。 
    ところが、夜明け前に、各所に辻立ち(非常線)が布かれていたので、それらの有象無象は、ひとりのこらず、網にかかってしまった。 
    だが、清盛の内示があったことなので、かれらは牢獄に放りこまれる代わりに、もとの宮城の門へ、続々、送り返されていた。 
    (略) 
    「どうなるんだろう?」 
    (略) 
    「皇居にはいりこみ、数日にわたっての尾籠、狼藉。不届き至極である」 
    武者をうしろに、ひとりの部将がいった。 
    「――だが、六波羅の大弐様の、かくべつな思し召しによって、こんどだけは、ゆるしておく」 
    (略) 
    「ゆるしてつかわすが、直ちに、退散はならん、広い宮苑を尾籠に汚したあとを、きれいに、掃除して、立ち去れ。――よいか」 | 
  
  
    ↑大内裏に浮浪者が入り込んだという記事は、当時の記録に残っているが、このように具体的な記述はなかったはず。 
    この他にも、浮浪者たちが、舎人、雑色の指図に従って掃除したことや、掃除終了後に救じゅう米を浮浪者に与えたことも新平家、池宮平家両方に書かれている。 
    ※文庫版(一)p247では浮浪者を使って清掃したくだりが数ページにわたり削除。 | 
  
  
    第3章 p222− 
    延寿は、装束やら路銀などを整えてくれた。 
    (略) 
    美濃から尾張へ、その地が清盛の弟、頼盛の領地になっていようとは、知る由もなかった。 
    その日弥平兵衛宗清は、。目代として新付の地の検分に、徒武者十数人を引き連れて旅していた。 
    「おい。いますれ違った小冠者、見たか」 
    馬上から声をかけた宗清に、侍の丹波藤三国弘が、馬脇で見返って見た。 
    「まこと、なかなかの小殿・・・尾張で名有る者の御子かもしれませぬな」 
    「うむ・・・そうだろうが、ちと解せぬ節がある」 
    「何が、でございます」 
    「近間の者にしては、装束の土埃の付きようが並ではない。かなり遠路を来たと見ゆる」 
    「それが・・・?」 
    「あの年ばえで、供人も連れず遠路を旅するのは、おかしいと思わぬか」 
    (略) 
    「待てイ!待て待て!」 
    徒武者たちに取り囲まれた頼朝は、平然と一同を見渡した。 
    「童、どこへ行く」 
    「素直に申せ。ただではおかぬぞ」 
    頼朝は、顔色も変えず、無言である。 
    馬を寄せた宗清は、顔で武者どもを制し、頼朝に呼びかけた。 
    「われらは官辺の者。答あって然るべきと思うが・・・」 
    「無礼!」 
    竹が撥ねかえるような声が戻った。 
    「かかる装束を身に纏う者を名も無き庶人と思うまい。物をたずねるに馬上のままとは平家の礼か。せめてもの事に鐙を外せ」 
    さわやかな物言いである。凛とした語調に怒気はなく、香気が感じられる。涼やかなその眸におびえの色は無い。 
    「これはご無礼仕った」 
    気圧されたように、弥平兵衛宗清は下馬した。 
    「それがし、当尾張の国司、平頼盛が家人、同苗弥平兵衛宗清と申す。改めてお尋ねしたい。もしや源家の御曹司ではござらぬか」 
    ――この物腰、口上。われらを平家と名指すからには、敵、源家の名ある者の子息に違いない。 | 
    天意不可思議 
    美濃から尾張境への並木道だった。 
    頼朝は、身軽い姿で、歩いていた。肌着も狩衣も、はばきも、わらじも、太刀も火打袋もみな、延寿が、母のように、身支度してくれたものである。 
    二月近い紺の大気の果てに、昼の月があった。 
    「いますれ違った童子、なかなかいい子がらではないか。鄙にはまれな」 
    供の徒歩武者十人程の弓や長柄越しに、弥兵衛宗清は、馬上からほほえましげに振り向いた。――すれちがって行った頼朝の姿を振り返ってである。 
    郎党のひとり丹波藤三国弘も、一しょに見ていた。 
    「まことに、気品あるお子。尾張あたりの名ある人の子かもしれません」 
    「そうだな。けれど、この騒がしい世に、供人もつけず、ひとり旅をさせておくのは、親心にせよ、ちときびしいの。――まだ、加冠(元服)もすんだか、すまないかの少年を」 
    (略) 
    宗清は、声に威嚇をこめて、 
    「答えろっ。答えぬと痛い目にあわすぞ」 
    すると頼朝は、かえって、その小さい両の肩を正して、大人の顔は水をかけるようにいった。 
    「おまえはたれだ。おまえこそ、馬を降りてものをいえ。わしは平家の下侍などに、馬上から何かきかれるような者の子ではない」 
    こんどは、宗清が黙ってしまった。そういう頼朝の眸を、また全姿を、見とれるように見入っていた。ーが、やがて素直に馬を降りた。そして頼朝のそばに寄って、自分は平頼盛の家来宗清であると告げて、 
    「さ、次はあなたの番ですよ」 
    と、やさしくいった。 
    宗清には分かっている。しかしかさねて、ていねいに質問したのである。 | 
  
  
    ↑「平治物語」諸本では頼朝逮捕の記載は本によって異なる。が、上記のような記載がなされたものはなく、この記載は新平家独特のものと考えられる。 
    ※文庫版(一)p265〜268では、削除及び大幅に書換省略。 | 
  
  
    第3章 p242 
    <源義朝ガ一子、前右兵衛権佐頼朝儀。伊豆国ニ配流仰セ付ケラル。依ツテ京師ヲ追立テ、配所ニ下向致サスベキ也> | 
    胆大小心 
    一 義朝ノ子、前右兵衛権佐頼朝事 
    一 伊豆国ニ配流申ツケラル 
    一 三月二十日、京師ヲ追立テ、配 
      所ノ地ヘ、下サレ申スベキ也 | 
  
  
    ↑上記の文章、どの原典にも見当たりません。 
    ※文庫版(一)p281では削除。 | 
  
  
    ※池宮平家第三章において、義平が清盛を襲撃した記述がある。しかし、「平治物語」では、付け狙っても実際には襲撃していない。実際に襲撃したという記載があるのは「新平家物語」だけである。 
    また、池宮平家では襲撃は金王丸と共に行ったと記述しており、「新平家」で義平は清盛襲撃後に金王丸と出会っている。両方とも、義平、金王丸、志内六郎三人が同時に会った記載がある。また、供回りが少ない状況で清盛が襲撃されている。 
    「平治物語」では、義平は再上洛後は志内六郎と共に行動し、金王丸は登場していない。(一本では終始単独行動)  
    なお、「平治物語」以外に義平について詳細な記述をしている本は無い。 
    ※文庫版(一)p250〜256では金王丸がまったく登場しなくなっている。 | 
  
  
    ※近衛天皇皇后であった多子の二条天皇への再度の入内問題。 
    池宮平家では、永暦元年の新緑の頃後白河上皇と清盛がこのことを取り沙汰し、「話しは少し飛ぶが」となってそれ以降入内した事になっている。また、新平家では永暦元年の秋入内となっている。 
    しかし、実際に多子が入内したのは、平治の乱の直後の平治2年(永暦元年)1月に早々に入内している。 
    池宮平家が、新平家を「参考」にしたことが推察される。 |