池宮彰一郎 『平家』 について (ハードカバー版) 4

―元木泰雄 著作との比較―

こちらも吉川『新平家』同様、以下、緑の文字部分はkmさんによる比較記述です。

池宮氏がろくに学術論文を読まずに「平家」を書いたのではないかと以前憶測したのですが、憶測ではあまりにも失礼だし説得力も無いと思ったので、学術論文と「平家」の読み比べを始めてみました。まずは、池宮氏が特筆すべきと書いた元木泰雄「平清盛の戦い 幻の中世国家」から始めてみました。この本(以下元木書)は上巻から下巻の始めの部分までがダブリます。
結論から言います。全く参考になってはいないわけではありません。ただし、参考の仕方が池宮氏「独特」です。内容はあまり参考にしていない。都合の悪い所は無視する。そして「参考」にするところは徹底的にパクるです。以下パクリのご紹介。(2004.3.20)

文庫版では司馬・吉川両氏の小説のパクリほど慌てて削除はしてないようですが、元木氏の原文を悟られないようにかなり書き換えてますね。それにしても、参考にしたというよりは、ただのリライトである感はやはりぬぐえません。(2005.2.5)
誤字脱字などを訂正しました。(2005.3.6)

 

池宮彰一郎 『平家』 元木泰雄 『平清盛の戦い 幻の中世国家』
上巻p6−7 
以来、摂関が最重要視されたのと対照的に本来天皇の師範役という曖昧な職掌しかもたない太政大臣は、常置されるとは限らず、地位は形骸化していた、というのが、歴史家の定説となっている。
だが、それは皮相的解釈である、と思う。

※文庫版(二)p127では太字箇所をほとんど削除、書換。

第2章 p81
 そもそも、太政大臣は摂関時代に摂関と分離して以来、やや形式的な官職となっていた。(略)この結果、摂関が重視されたのとは対照的に、本来天皇の師範役という曖昧な職掌しか有さず、常置でもなかった太政大臣地位は低落することになる。
(略)太政大臣補任を後白河による抑圧などと解釈した拙稿の見方は余りに皮相的であった。
中巻p263   
 六月二日、福原遷幸は実施された。九条兼実が書き記した「玉葉」によれば、安徳天皇・高倉上皇と女院・女御の一行は卯の刻(午前六時)京を出立した。数千騎の平家の軍勢が左右に分かれて、一行を警護したとある。先頭は清盛、続いて女院の牛車や女房の輿、その後に行幸があった。
 神詣での行幸と異なり、神鏡を奉持した内侍所や竈神が伴われ、行幸が単に旅するものではなく、遷幸であることを証明するかのように思われた。
 大納言藤原隆季、同実房、同邦綱らが続き、次に高倉院の御幸が続いた。公卿で供奉を許されたのは、親平家のものに限られた。
 鳥羽離宮に幽閉された後白河法皇は、別途福原に連行されたとある。
※文庫版(三)p93では語句の順をかなり入れ替えるなどして書換。
第4章 p181
 一行は卯の刻(午前六時)京を出立した。数千騎に及ぶ武士が、二列に分かれて一行を挟む形でものものしく警護したという。先頭は清盛、女車や女房の輿につづいて行幸があった。神鏡を奉持した内侍所や竈神が伴われており、このことは、行幸が一時的ものではないことを物語っていた。ついで、隆季・邦綱らを従えて、高倉院の御幸が続いた。後白河法皇も別途福原に連行されていったのである。

 

中巻p264
「緇素貴賎、仰天ヲ以テ事トナス。タダ天魔、朝家を滅ボサント謀ル、悲シムベシ、悲シムベシ」
 と
、兼実は文章を締め括くっている。
※文庫版(三)p94では「 」内を残し削除。
第4章 p181
 
彼は「緇素貴賎、仰天をもって事をなす。ただ天魔、朝家を滅ぼさんと謀る。悲しむべし悲しむべし」と締め括ったが、これは貴族たちに共通する感慨だったに相違ない。
中巻p264−
 天皇・上皇の行幸と、法皇動座の一行は、その日摂津大物浦(現・尼崎市)に到着し、藤原邦綱の別墅に宿泊、翌日福原に至る旅程となっていた。
 旅程は、洛南鳥羽から舟運を利用したらしい。当時の、高位高官の公卿は、北摂津の山路をたどるより、座して運ばれる舟運を利用するのが一般的であった。
 その意味で、寺江(現・尼崎市)の邦綱別墅は、交通の節目に当たる。この別墅は、宏大を誇り、船のまま邸内に入ることが出来た程であった、と、別の史書は伝えている。
※文庫版(三)p95では語句の順をかなり入れ替えるなどして書換。
第4章 p181−
その日摂津大物浦(現・尼崎市)の邦綱の別荘に宿泊、翌日福原到着する予定となっていた。
 このように、鳥羽から淀川をで下り、河口付近で一泊して、陸路または海路を用いて福原に赴くのが、当時のの交通路として一般的なものだった。軍勢などの通行には、北摂の山麓や昆陽野(現伊丹市)を通って一直線に福原に向かう街道も用いられたが、虚弱な貴族たちはなるべく楽な水運を利用していたのである。その意味で、邦綱の寺江(現・尼崎市)の別荘は、交通の節点を押さえたものだったと言える『厳島御幸記』によると、この別荘は、船のまま邸内に入ることができる、豪華の設備があったとされる。
中巻p267−
 天皇・上皇・女院・女御と限って、供奉の者も削減した御幸であったが、福原に到着すると宿所の不足は眼に余った。
 安徳帝に当てた天王谷川の上流、本皇居は未だ完成に程遠く、とりあえず頼盛邸を内裏とした。後白河法皇の御所には教盛邸が、高倉上皇の御所には清盛の別宅が提供された。
 この春、安徳帝即位の後、摂政に任ぜられた近衛基通の宿所は、目下大宰府に在任中の安楽寺別当安能の房倉が当てられたが、随行した公家や属官には宿所が無く、路上に敷物を敷いて座し、軒端に身を寄せて横たわるという悲惨な状態であった。
※文庫版(三)p99では一部削除、書換。
第4章 p182−
 しかし、突然の遷幸であったため、福原における宿所の準備も十分ではなかった。内裏には頼盛の邸宅が、高倉上皇の御所には清盛の別荘が、後白河院の御所には教盛邸が、そして摂政の宿所には大宰府にある安楽寺の別当安能の房舎がそれぞれ当てられたが、随行した多くの人々には宿所がなく、路上に座す有様だったという。
中巻p268−
 右大臣九条兼実は、六月十三日、京を出て福原に向かった。反平家の彼に招聘が到来したためである。
 清盛は、福原新都の造営に関する公卿公家の知識意見を求めた。兼実にしても高倉院の名目での招聘を無下に拒む程の意気地の強さは、無かった。
 その日、兼実は量の減少した淀川を舟でった。
 途中、摂津寺江の邦綱別荘で一泊した兼実は、翌十四日、輿で福原近郊の湊川に到着、牛車で福原に入った。
 ――これは大変な土地だ。
 寺江から湊川までの海岸沿いの街道は、砂地の箇所が多く、牛車の走行には支障がある。
※文庫版(三)p99では後半のみ一部削除、書換。
第5章 p186
 清盛は都の造営に関する貴族たちの知識意見を求めた。内心平氏政権を嫌悪し、何かにつけて政務に距離を置いたはずの兼実も福原に呼びつけられ、宮都造営について高倉院から諮問を受けた。彼は治承四年(一一八O)六月十三日、京を出て水不足の淀川を下り、邦綱の摂津寺江の邸で一泊、翌十四日、輿で福原近郊の湊川に至、牛車で福原に赴いている。後でも触れるように、福原までの道路は砂地のため車の走行には支障があった。
中巻p269
 兼実ら有識者が、まず諮問を受けたのは、東西、南北の条坊が不足しているため、内裏を平安京より大幅に縮小する事の是非である。
 実際に造営が計画された福原新京は、南が五条まで、東は朱雀大路から西洞院大路(二坊大路)までが精一杯で、あとは海に没入してしまう。平安京に比して約四分の一の規模しかない。
 白河院の時代、鴨川の東に院御所の殿舎が設けられ、それに伴って大寺・小寺が建造され、都の一部として発展した。そのため都の機能が集中する左京がまず問題となった、と考えられている。
※文庫版(三)p100では一部削除、書換。
第5章 p186−
 この時、兼実が諮問を受けたのは、まず、左京の条里が不足しているため、宮城、すなわち内裏を平安京より縮小するか否かという点、次に右京の予定地に平地がわずかしかない点、そして本来なら今秋に行われる大嘗祭の開催場所と、遷都と平行した場合に荷重となる費用負担をどうするかという三点であった。
 これによると、造営が計画された新京は、左京が南が五条まで、東が朱雀大路から洞院西大路までしか設定できないとされた。平安京に比べればおよそ四分の一の規模ということになる。このため、兼実は宮城の縮小も止むなしと返答している。左京が最初に問題となるのは、いうまでもなく平安京において左京のみとして機能していたことの反映であった。
中巻p269
右京予定地域は陵や深入り組んで、都の街には不適と見たが、兼実は「深山幽谷に非ず、必要に応じてある程度手を加えればよい」と楽観視している。
 ここで想定された条坊は、北東から南西に延びる山陽道を朱雀大路に仮定して、碁盤の目のように条坊をあてはめたものと考えられる。
 だが、天子南面の原則や、遠く平城京の結構を考慮すると、和田岬の西側を想定した予定図は、東西に細長く、南北に狭隘で、正方形に近い条坊を設定する事は、根本的に不可能である、と見なされた。

※文庫版(三)p101では全部削除。

第5章 p187
 これに対し、右京は山・谷が入り組んだ地形で、宮として用いることは困難だったが、兼実は大山・深谷ではないので、必要に応じて工事を進めていけばよいと述べている。こうした右京に関する対応は、平安京において、右京がすっかり衰退しており、宮都にとってとくに必要な区域ではなくなっていたことと無関係ではない。
 ここで想定された条坊は『玉葉』に「条里」によって規定されると見えることから、かつては摂津国の条里に沿う形で設定され、北東から南西に走る山陽道を朱雀大路としたものと考えられた。しかし、平城京の指図が参照されていること、天子南面が原則であることなどから見て、実際には平城・平安京と同じく南北に真っ直ぐの宮都が想定されたものと考えられるようになった。
 新京の区域については和田岬の西側、現在の兵庫区付近に推定されているが、現在の神戸の地形からも明らかなように、東西に細長い地形では、正方形に近い条坊を設定する事は、根本的に困難であった。
中巻p270
 和田新宮が退けられると、急いで小屋野(現・昆陽)新宮論が上呈された。
 現在兵庫県伊丹市に属する武庫川流域の平野部、小屋野はどうか、と言うのである。
 兼実は、小屋野新宮案を聴取しながら、「玉葉」にこう記している。
「遷都なきにしかず」

 確かにその通りである。院御所の女房どもも、京の日々を回顧して嘆かぬものは無く、涙に暮れる有様であったようである。
※文庫版(三)p101では大部分削除。
第5章 p187−
そのためか、突然和田新京案は撤回されてしまう。
 十五日、高倉院御所を訪れた兼実の目前に登場した時忠は、蔵人頭藤原経房に対し和田に代えて小屋野を京とし、早速木工寮の役人を派遣するように命じた。和田は町数が少ないので便宜のある小屋野を選定したという。小屋野は現在「昆陽野」と記し、兵庫県、伊丹市に属する。武庫川流域の平野部で、京と福原を結ぶ西国街道(今日の国道一七一号線)沿いの場所であった。
 このやりとりを聞いた兼実は、和田であろうと小屋野であろうと、とにかく「遷都なきにしかず」と日記に憤懣を記している。院御所の女房たちも、故郷の京を思って嘆かないものなどなく、涙を流すものもいたという。
中巻p270
 忌々しくそう記した兼実も、会議を統括する立場となっていたため、拗ねてばかりは居られなかった。
 一応検分するにしかず、と午後の陽ざしの下、輿に乗って小屋野に赴いた。里程二里半(約十キロ)、堪え難い腰痛に悩み、広田神社(現西宮市)で馬、更には手輿に乗り換え、気息奄々たる有様で、ようやく寺江の邦綱邸にたどりついた。
 時、六月は盛夏の候。兼実は<心気悩乱>のため、数日臥床する程であった。
※文庫版(三)p102では「六月は盛夏の候」「心気悩乱」以外ほとんど削除、書換。
第5章 p189
 兼実
はその日の午後、寺江に向かった。往路と同様、福原を出ると輿を用いたが、二里半も輿にのったために、腰痛に見舞われ、広田神社(現西宮市)の前で馬、さらに手輿に乗り換えて、まさにほうほうの体で寺江の邦綱の別荘にたどり着いた。猛の六月だけに、本来は心地よいはずの浜風も、遷都騒ぎに動転する彼には「心気悩乱」を招いただけだった。
中巻p270
 兼実は報告に「不適」と断じて、静養のため帰京すると、今度は厳島内侍の託宣とやらがもたらされた。
 託宣は、播磨印南野の新都計画であった。
 兼実は病躯を押して、大内裏に赴き、調査した。現在の兵庫県加古川市から明石市にかけての播州平野は、今も多数の溜め池を設けて水を計るほかなき台地で、飲料水の確保が至難の地である。
「水無きにより叶い難し」
 と
あって、この案も却下された。
※文庫版(三)p102では一部削除追加して書換。
第5章 p189
 ところが、帰京した兼実の耳に届いたのは、今度は厳島内侍の託宣とやらによる、播磨印南野への遷都計画であった。印南野は現在の兵庫県加古川市から明石市にかけての播磨平野の地であるが、結局は「水無きにより叶い難し」という結論に達してこの案も却下されてしまった。この付近は台地状に平地が広がる地形で、条坊の設定には困難がないものの、現在でも多数の溜め池用されていることからわかるように、飲料水の確保に大きな問題があった。したがって、多くの人口が集まる宮都の造営が困難とされるのも当然であった。
中巻p334   
陰陽師が仔細らしく占った末、院御所に当てられた平頼盛邸を無類の悪所と断定したため、翌日早々に蔵人頭平重衡の邸に移転する騒ぎとなった。
 更にその翌日、これも陰陽師の意見を容れて、上皇は形式上の兵杖・封戸・尊号を辞退するに至り、政務はまったく執れなくなった。
※文庫版(三)p181では一部削除追加して書換。
第5章 p200
二十八日には、従来の院御所平頼盛邸陰陽師らが悪所としたため、蔵人頭平重衡の邸に移っている。更に翌二十九には兵杖・封戸・尊号を辞退するに至り、政務も困難となったのである。
中巻p334−
 権大納言隆季の書状には、高倉上皇の政務が当分差し支える現状を縷々と述べたあと、上皇が夢想に悩んでおられる事を付け加えてあった。
 それに依ると、上皇の夢中に生母建春門院が現われ、墓所のある京を離れたことを嘆かれる様を二度三度見たとある。更にその中宮の建礼門院や隆季自身も見たという。
※文庫版(三)p181ではセリフを挿入するなどして書換。
第5章 p200−
『玉葉』の八月四日条によると、高倉院の夢中に生母建春門院が現われ、墓所のある京を離れたことに激怒したという噂が伝えられている。高倉は夢想に事寄せて、福原遷都に対する反感を露わにしたのである。さらに、同じ日の記事によると、同様の想がすでに中宮徳子や、院の執事別当権大納言隆季にもあったことが記されており(略)
中巻p337
殊に隆季が言う、
「遷都のこと、およそ叶うべからざるものを。よんどころなき沙汰かな。今、始終みるべし」
 
との批判は、反平家党にとって、院宣を促す言葉となった
 陣定の決定事項として、高倉上皇の院宣―還都命令が起草された。それを清盛に伝える使者として、隆季と、かねてから平家一門に加えられていながら、清盛の意に背き続けた時忠(平時子の同母弟、高倉院別当)が選ばれた。
 両名が、院宣を伝えた時の、清盛の反応の言葉が記録に残っている。その大意は、
「上皇が発せられた院宣は、結構な事と存ずる。然しこの老法師(清盛自身)はお供するつもりはない。気まま勝手に還幸なされたがよかろう」
 清盛が内に秘めた怒りや冷侮は、隆季・時忠を戦慄させた。京に立ち帰った両名は、陣定に参集した公卿・高官に報告すると、以後は還都を口にするものは絶えた、という。
※文庫版(三)では冒頭数行削除、後半を書換。
第5章 p201−
隆季は「遷都のこと、およそなほ叶うべからざるものを。よんどころなき沙汰かな。今、始終みるべし」などと清盛に対する皮肉をこめた批判を述べた。ひそかに語ったはずのこの言葉は清盛に伝わり、彼を激怒させるとともに、意地でも遷都を実現させたいという「励心」を起こさせたという。
 ついで、隆季は同じく院別当である平時忠とともに、高倉院の意向をいう形をとって、清盛に対し還都を命ずるに至ったのである。ところが、清盛は「それは結構なことだ。しかしこの老法師はお供するつもりはない」と手厳しくはねつけた。これを聞いた隆季・時忠たちはたちまち悄然となり、以後は還都を口にする者もなくなったという。
下巻p20ー21
九条兼実の「玉葉」では、平家一門の主力である宗盛・教盛が自ら追討に赴くという説のあることを記している。また巷説によれば遠江以東十五カ国に叛乱が拡大したとある。
 ――遷都と追討は両立困難である。
(略)
 彼が還都を決断したのは、富士川合戦の敗報を入手して僅か十日後、即ち十一月十日前後であった、と推定される。
※文庫版(三)p254〜255では前半を書換。
第5章 p219
『玉葉』の十一月八日条では、一門の主力である宗盛・教盛が自ら追討に赴くという説がある一方、遠江以東十五カ国が反乱に与同し、草木に至るまで靡かないものはないとまで噂された。
 先述のように、清盛が還都を決断したと見られるのは十一月十日頃で、再度の追討使派遣が検討されたのはまさにこの段階である。清盛は、追討と遷都の両立の困難と判断し、還都を決断したものと考えられる。
下巻p21
 還都の準備中にも凶報が相次いだ。乱は美濃にも及び、更に近江にした。近江の叛乱軍は琵琶湖の交通を遮断して、北陸からの運上物を奪うとともに、ひそかに園城寺と提携し、京に乱入する動きを示した。
 畿内周辺には、源家庶流の豪族が多数存在している。彼らは朝廷に仕え、平家に従属しているが、そうした武士団が不穏な動きを示すにいたった。
 九条兼実の『玉葉』には「敵軍すでに充満の刻、たちまちもって還都す。あに物議にかなわんや」と、還都延期の予想を述べている。

※文庫版(三)p255では以下のように間引いて書換。

しかし、凶報は相次いだ。美濃に飛び火した乱は、更に近江にもした。近江は琵琶湖の水運が遮断され、北陸からの物資の搬入が滞った。平氏の天下になっても、畿内には、源氏庶流の武士団がく残っていたのである。そうした武士団の中には、平家と敵対する園城寺と結ぼうとする動きも見られた。
九条兼実の『玉葉』には「敵軍すでに充満の刻、たちまちもって還都す。あに物議にかなわんや」と、還都が困難ではないかという予想を述べている。

第5章 p220
 還都の準備が進む間にも反乱の火の手は広がった。『玉葉』の十二日条では、反乱は美濃にも及んだとされ、清盛が私郎従を派遣し、ついで追討を派遣するという情報が流れている。(略)
 二十一日条には、反乱が近江にも及び、伊勢に向かった宗盛の郎従が殺害されたとある。平氏一門の拠点でもある伊勢との交通まで遮断されたのである。二十三日条では、近江の反乱軍は琵琶湖の交通を支配して、北陸から京への運上物を奪取するとともに、園城寺と提携し京に乱入する動きさえも示したという。(略)
畿内周辺には、源氏庶流の軍事貴族が多数存在しており、彼らは拠点と京を往復しながら朝廷に仕え、軍事的には平氏に従属していた。そうした武士団が相次いで平氏に反旗を翻すに至ったのである。
 世情騒然とする中、還都の準備は進められ、隣国近江で反乱の炎が燃え盛る最中の十一月二十六日、平氏一門は福原から京に還都することになる。もちろん「敵軍すでに充満の刻、たちまちもって還都す。あに物議にかなわんや」『玉葉』二十一日条)という批判もあり、還都延期の噂も流れた。
下巻p21-
 だが清盛は泰然自若と事に処した。二十三日には安徳天皇の出門の儀式を福原行った。天皇は宇治(現・神戸市兵庫区)にある藤原邦綱邸に移り、翌二十四日出立、寺江の邦綱の別荘で一泊翌日淀川をさかのぼって木津殿で一泊、二十六日に京に還幸された。
 高倉上皇・後白河法皇も同時に還幸されたことは、言うまでもない。

第5章 p221−
しかし、逆に清盛は還都の予定を繰り上げて、二十三日には福原において安徳天皇の出門の儀式を行うのである。
 十一月二十三日、還都の出門の儀式を行うために、安徳天皇は邦綱の新邸に移った。この邸宅は清盛や頼盛の邸宅に近い宇治(現神戸市兵庫区)にあり、遷幸後に造営を始めたが、結局還都までに出来上がらず、この儀式のために大急ぎで沙汰をしたという。
(略)
 安徳天皇の一行は翌二十四日宇治の邦綱邸を出立した。(略)彼らは往路と同様、寺江の邦綱の別荘で一泊している。
 翌日、大嵐の吹きすさぶなか、一行は木津殿まで淀川をさかのぼって一泊し、翌二十六日に京に入った。約半年ぶりに天皇・上皇は京にもどり、京は首都の座に復したのである。
下巻p21-
京での宿泊は、安徳帝は五条の邦綱邸、高倉上皇は平頼盛の池殿、後白河法皇は故重盛の泉殿と、それぞれ平氏一門の六波羅の邸に入られた。史書「吉記」によれば、行幸に供奉する公卿公家は意外に少なかったが、きらびやかな武士が整然と随行する様は壮観であり、京中の雑人たちは群がってこの行列を拝観し、随喜の涙を流したという。
 清盛もまた、後白河院より三日遅れて、二十九日、京に帰った。この幸は、清盛にとって初めての挫折である事に相違なかった。だが、清盛に屈する色は皆無であった。
 彼は、京都帰還に際し、断固として令した。曰く「一人として福原に残るべからず」と。
※文庫版(三)p256では前半を以下のように書換。
「行幸の列には、公卿公家が少なく、代って綺羅びやかな武士の姿ばかりが目立った。ともあれ、この還都の行列に、京の天下貴賎は悦喜した、と経房は書き残している」と書き直されているが、読者にすれば「ここにいきなり出てきた経房って誰?」である。吉記の筆者・吉田経房のことであろうが、この唐突な登場は「吉記によれば」近辺を削ることに腐心したためのミスであろう。
第5章 p222
『玉葉』によると、安徳は五条の邦綱邸に入ったが、供奉したのは平時忠と藤原成範のみという有様であった。高倉は頼盛の池殿、後白河は故重盛の泉殿(『山塊記』は泉殿を清盛邸とする)と、それぞれ平氏一門の六波羅の邸宅に入った。『吉記』によると、行幸に供奉する貴族は少なかったが、多数の武士が随行する様子は壮観であった。京中の雑人たちは群がってこの行列を眺め、あるいは合掌し、あるいは悦びの色を表したという。
(略 以下p223)
 たしかに福原からの都は、治承三年政変以来試行錯誤を経ながらも、独自の政治構想を実現してきた清盛にとって、初めての挫折であった。(略)清盛には、還都を通して内乱と対峙しようとする断固たる意志が秘められていた。(略)ただ、『玉葉』の十一月二十四日条には、彼も後白河と共に京に帰ること、そして「一人として福原に残るべからず」という清盛の方針が記されている。
下巻p53ー
 反清盛党の兼実は、東大寺・興福寺の悪僧が上洛して、延暦寺とともに六波羅を挟撃するらしいと述べているが、これは希望的観測であろう。また清盛・宗盛の気力失せ、郎党も逃亡したという噂も、実しやかに述べているが、信ずるに足りない。
 そうした記述は二十一日に一変する。二十五日に追討使が進発することが明らかとなったためである。清盛は河内大和両国の国人を動員し、平氏軍過の警命じた。その日、平重衡を大将軍とする追討軍は、南都に向かった。
※文庫版(三)p295では大部分削除、書換。
第6章 p236ー
兼実は、悪僧が十八日に上洛して、延暦寺とともに六波羅を挟み打ちにするという噂を耳にしている。平氏嫌いの兼実は、清盛・宗盛の気力はすっかり失せ、郎従も逃亡したという情報を日記に記している。あるいは、興福寺と平氏の衝突が回避されることを祈った希望的観測だったのかもしれない。
(略)
 二十一日には除目が行われている。(略)
翌日、兼実は追討使が二十五日に派遣されるという情報を得た。追討使は悪徒を捕えるだけではなく、房舎への放火も行い、一宗「磨滅」(滅亡)するだろうと噂された。園城寺の例と考え併せても明らかなように、寺院に対する放火は規定の方針だったのである。そして、大和とともに河内の国人が動員され、官兵の路の守命じられている。そして二十五日、重衡を大将軍とする追討軍は、南都に向かって進発していった。
下巻p53
 二十八日昼過ぎ、京に
在る公家公卿は、南方に立ち上る煙を望見した。京から奈良の距離は七里半(約三十キロ)、視界を遮るような山は無い。夜になると、その火炎は鮮やかに空を焦がした。その炎こそ、大仏を焼き、南都の諸寺を焼き払う戦であった。
 追討の平氏軍を、興福寺・東大寺の僧兵が如何に迎え撃ったか、諸説紛々である。だが、強訴で威嚇するのを旨とした兵が、正規軍とまともに戦える筈がない。抵抗はたちまち崩壊して、南都は平氏軍の為すがままになった。
 追討軍は、容赦なく火を放った。「平家物語」は、夜戦のため明かりが必要となり、重衡の命で民家に火を放ったとあるが、「延慶本平家物語」では、「敵ノ籠リタル堂舎、坊中ニ火ヲカケテ、是ヲ焼」とあるように、意図的に放火したと見てよい。
※文庫版(三)p296では冒頭の「視界を遮るような」以降削除。
第6章 p238
 いくつかの小競り合いを経て、向かえた運命の十二月二十八日。
 京に
いた藤原忠親は、未刻(午後二時)ごろ、南方に立ちのぼる煙を見つけた。京から奈良の間には視界を遮るような高い山はない。今日と違って空気も澄んでいた当時、三十キロばかり離れた奈良における火災の火の手や煙も、京からむことができたのである。夜になると、その火災の光より明に輝くようになった。当初、それは木津川付近の在家が放火されたものとされ、忠親は、衆徒は意気盛んであったと記している。しかし、実はその炎こそ、大仏を、そして南都を焼き滅ぼした地獄の劫だったのである。
 平氏軍を迎え撃った悪僧の人数については諸説がある。しかし、たとえ多人数だったにせよ、宗教的な示を基本とする強訴に明け暮れてきた悪と、殺戮をこととする合戦を目的としてきた武士とが、まともに戦っては勝負にならない。抵抗も空しく悪僧の防御はたちまちに突破され、追討軍は南都に侵入、放火した。(略)
『平家物語』は、夜
戦となったために明かりが必要となり、重衡の命で福井庄司俊方が在家に火を放ったところ、折からの北風に煽られ燃え広がったとして、偶発的な火災とする。一方『延慶本平家物語』では、重衡は「次第ニ南都ヲ焼払」ったとし、福井庄司は、悪僧の籠もる城はもちろん、寺内にある「敵ノ籠リタル堂舎、坊中ニ火ヲカケテ、是ヲ焼」くとあるように、意図的に堂舎を焼き払ったとしている。
下巻p54
 興福寺では、三基の塔、金堂、講堂、南円堂、北円堂、鐘楼、経蔵、宝蔵、僧坊、南大門、中門、諸院家など、堂舎三十八カ所が
ことごとく焼失し、残ったのは小房二棟のみだった
 東大寺も大仏殿以下大半の堂舎が焼亡し、正倉院などの倉などが僅かに焼け残っただけだった。
 堂舎だけでなく、仏像・経典の多くが焼失し、積学の高僧や修学の僧侶の命は殺戮され、両寺はまさに一宗磨滅となった。「平家物語」は、悪僧の討死一千余、戦に不参加の僧侶を含め死者三千五百余、とある。これは大袈裟であろうが、いずれにせよ辛うじて誅殺を逃れたものは散り散りに逃亡し、南都の抗争は終了した。
※文庫版(三)p296では一部を残し削除。
第6章 p239
 興福寺では、三基の塔、金堂、講堂、東西の金堂、南円堂、北円堂、御塔、鐘楼、経蔵、宝蔵、回廊、僧坊、南大門、中門、諸院家など、堂舎三十八カ所が焼失し、残ったのは小房二宇だったとある。堂舎とともに仏像、経典の多くも焼失し、修学の僧侶の命も多数奪われた。まさに法相宗は、一宗「磨滅」となったのである。
 東大寺も大仏殿以下大半の堂舎を失い、正倉院などの倉や少々の在家が焼け残ったに過ぎない。聖武天皇の建立以来、四世紀半の間、日本における仏教信仰の中心だった大仏の焼亡は末法思想と相まって貴族たちに激しい衝撃を与えることになる。
『平家物語』は、悪僧の討ち死に千余人、非戦闘員を含む焼死者総勢三千五百人に上ったとする。もっとも、『玉葉』によると、梟首されたのは三十余人というし、『山塊記』でも追討使が帰京の際に持参した悪僧の首は四十九だったとしており、『平家物語』の記述は例によって過大だったようである。いずれにせよ、追討を逃れた悪僧たちも各地に散り散りに逃亡し、興福寺悪僧の蜂起と平氏政権に対する抵抗は、事実上消滅する。
下巻p55
 正月、前年から体調を崩された高倉上皇の病状はますます悪化した。も上昇し、厳の季節に薄着を好まれる有様で、九日の容態では玉顔も腫れ、腹部は膨張し、下痢の症状もあらわれた。
 十三日には遂に危篤に陥られた。容態は絶望的であったが、上皇は前年と異なり生への強い執念を見せられ、数十点の灸治にも堪えたという
 だが、天運はあくまでも非情であった。高倉院は十四日、仮御所の六波羅殿において、二十一年の生涯を終る。
 清盛にとっては一大痛恨事であったであろう。高倉は女婿である上に、治承三年までは深く提携し、後白河院政を停止した後は、高倉政を擁立しようとした。その上皇の死は悲嘆すべきものであったに違いない。
※文庫版(三)p298〜299では一部削除追加して書換。
第6章 p244ー
 すでに前年から体調を崩していた高倉院の病状は、年が空けて益々悪化していた。治承五年正月九日には顔も時々腫れ、腹部も膨張し、下痢の症状も見られた。熱もあったらしく、い時期にもかかわらず薄着を好む有様で、声もかわってしまったという。十三日には危篤の噂が流れ、兼実も見舞いに出掛けている。容体は絶望的であったが、院は生きることに強い執念を見せ、数十カ所の灸治にも堪えたという。
 しかし、それも虚しかった。高倉院は十四日、六波羅殿において、わずか二十一年の生涯を閉じることになるのである。治承三年政変の頃には清盛と深く提携していたものの、(略)
 清盛にとっては高倉は女婿である上に、後白河院政を停止してまで擁立した院であっただけに、その病状に悪化は悲嘆すべきものであったと考えられる。
下巻p58
 清盛の発病は、この年の二月二十二日と伝えられる。最初頭痛(頭風、とあり)をし、翌々日発熱(温気)が起った。
 その記述は、興福寺僧の手による「養和元年記」の閏二月(この年は閏年で、二月が二度あった)四日条にある。「吾妻鏡」では二月二十五日発病説、九条兼実の「玉葉」二月二十七日条では、清盛の数少ない盟友である藤原邦綱が腫物を病んだのが始まりで、次いで清盛が激しい頭痛に襲われたとある。
 翌閏二月一日、兼実は家司中原有安から「禅門(清盛)の所労(病気)、十の九はその憑みなし」と、清盛が危篤に陥った事を聞かされている。同日、美濃の戦に向かう筈の宗盛、重衡が陣を延期した。
※文庫版(三)では中程を削除し書換。
第6章 p261ー
 清盛が発病した日付について、興福寺僧の手になると考えられる『養和元年記』の閏二月四日条には、二月二十二日に頭風(頭痛)症し、二十四日には温気、すなわち発熱が始まったとある。また、『吾妻鏡』では二月二十五発病説をとっている。これに対し、『玉葉』が初めて清盛の病にふれているのは、二月二十七日条である。この記述によると、清盛の長年の盟友藤原邦綱が「二禁」(腫れ物患ったという報に続いて「禅門、頭風を病む」とあり、やはり頭痛の発病が伝えられていた。(略)
 清盛の病状は急速に悪化してゆく。翌閏二月一日には家司中原有安から「禅門の所労(病気)、十の九はその憑みなし」という報告を受けた。同日、美濃の前線に向かうはずだった宗盛が、清盛の病気を理由に立を取り止めている。
下巻p71
 病状については、誇大な噂が流れ飛んだ。琵琶法師の説話に基づく「平家物語」では、「あっち死に」したとあり、高熱のため水風呂が沸騰し、頭に乗せた雪が瞬時に湯気になったと記した。同書の原文とされている「養和元年記」は、清盛に焼打ちされた興福寺僧の記述であるから、清盛の死を仏罰にするための曲に違いない。
 清盛の苦藤原定家の日記「明月記」にも見えるが、特に日記類を編纂した「百練抄」には、「身の熱、火の如し。世以て東大・興福を焼くの現報とす」と、いみじくも仏罰説から発した舞文曲筆であることを自白している。
※文庫版(三)では中程を削除し書換。
第6章 p263
 彼が激しい熱病に苦しみながら臨終を迎えたことは、「あっち死に」したとする『平家物語』の記述からもよく知られている。高熱のため水風呂が沸騰し、頭に乗せた雪が湯気になったという極端な記述は、『平家物語』の原型とされる『養和元年記』にも見えている。ただし、先述のように、この日記は清盛に焼打ちされた興福寺僧の手になるもので、仏罰による死去を強調するために清盛の煩悶を特したのであろう。
 清盛が熱病で死去したことは、他の記録類にも記されている。たとえば、歌人として名高い藤原定家の日記『明月記』は清盛が絶したという噂をつたえているし、日記類を編纂した『百練抄』にも、身の熱、火の如し。世以て東大・興福を焼くの現報となす」とある。清盛が激しい熱病で苦しみながら死去したのは事実であり、貴族たちの間にそれを仏罰とする空気が強かったことが窺われる。

 

☆★☆ 文章の酷似と、元木氏の主張を曲解 ☆★☆

池宮彰一郎 『平家』 元木泰雄 『平清盛の戦い 幻の中世国家』
下巻p23
 十二月一日、清盛は伊賀国鞆田荘の武士、平田入道家継の軍勢を近江に差し向けた。
 平田家継の家は平家累代の郎党頭である。家継の祖父進三郎家房は、平家の一族でありながら、清盛の祖父正盛の郎党となり、父の木工助家貞は正盛・忠盛・清盛と三代にわたって忠勤を励み数々の功績をあげ、左衛門尉に任ぜられ、一門に列した。
 その平家貞の家は嫡子家実が継ぐ。次男家継は、伊勢平氏の本領に隣接する伊賀国を所有し、平家軍団の中枢と言える最精鋭軍団を養った。また、三男貞能、四男家長は清盛の側近として仕え、殊に貞能は平家軍団の侍大将に抜擢されるなど重用された。
(6行略)
 平田家継はまず、福原を脱走して近江源氏に身を寄せた手島(豊島)某を討ち取り、近江源氏の中心をなす甲賀入道義兼の城を攻略した。
 次いで、知盛・資盛を大将軍とする第二次追討軍が派遣された。知盛は清盛子息の中で最も知性に富み、一門の中心的武将であると目されていた。資盛は故重盛の小松殿一門の中で兄維盛を凌ぐ武将として聞こえが高い。
 平家は脆弱、という評判は瞬く間に払拭された。近江源氏は壊滅的打撃を受け、追討軍は易々と尾張へ軍を進めた。
第5章 p224ー
 まず、十二月一日には、清盛の命を受けた伊賀国鞆田荘の武士平田入道家次が、近江に攻め込んだ。彼は、福原を逃れて近江源氏に身を投じた手島冠者を討ち取り、近江源氏の中心の一人、甲賀入道義兼の城を攻め落とすという戦果を挙げたのである。この平田入道は忠盛の股肱の臣家貞の息子で、弟貞能は一門の侍大将の立場にあった。伝統的な平氏の本領を支配するとともに、重代相伝の郎従という立場にあり、まさに平氏軍制の中心とも言うべき武士であった。すなわち、私郎従の中でも最精鋭部隊だったと言える。
 翌二日には、知盛・資盛以下を大将軍とする追討使が派遣された。知盛は清盛と時子の子息で、先述のように清盛最愛の息とされた一門の中心的武将であるし、資盛は兄維盛を凌いで小松殿一門の中でも中心的な立場にあった。私郎従と言い、追討使の大将軍と言い、富士川合戦の轍を避けて、平氏が精鋭部隊を派遣していることがわかる。
池宮平家では末尾に「追討軍は易々と尾張へ軍を進めた」とあるが、元木書によると、近江を完全に制圧するには引き続き延暦寺焼き打ちをしたし、この後南都攻略もあったようで、尾張に進撃したという記述はどこにも無い。池宮氏は元木書の字面だけまねして内容を理解していないか曲解した可能性がある。
※文庫版(三)p258〜259では後半を書き換えるも、「近江を攻略した後に尾張へ進軍した」という旨の記述はそのまま。近江〜美濃と尾張墨俣の合戦は連続しておらず、派遣された人員も全然違うんですけどね。km氏の言われるように、内容を理解していないんでしょうね。
下巻p26
知盛は、平信兼(山木判官兼高の父)・同盛澄らを率いて近江から、副将資盛(維盛の次弟)伊賀の郎党平貞能を侍大将に伊賀から、また伊勢守藤原清綱が伊勢から、それぞれに尾張に進撃した。
第5章 p225
 知盛は、平信兼・同盛澄らを率いて近江から、資盛は平貞能を伴って伊賀から、また伊勢守藤原清綱が伊勢から、それぞれ進撃した。
しつこいようだが元木書では尾張に進撃ではなく近江を攻略である。池宮氏の理解力に疑問を感じる。
※文庫版(三)p262ではこの部分を削除。ただ、その前にある「大将軍 知盛 が尾張に進撃し行家は墨俣で大敗北」という旨の記述はそのまま。知盛は近江から一旦帰京してますし、p328〜334では「 重衡 を総大将とする追討軍が尾張へ向かい、行家軍は墨俣で壊滅した」旨の記述もご自分でなさっているんですけれども、大将軍や従軍した者が誰かということが完全に混乱してますね。原史料に当たらず人様の記述をその場その場で適当に取り込んでいるから、この墨俣の戦いが同一のものであるということが頭の中でつながってないんでしょうね。
下巻p53
 十二月二十一日、陣定(議定)が行われた。病の高倉は政務がとれ、法皇も遠慮して、関与を避けた。結局、清盛が若年の摂政基通を推して行わせた。決定事項は一事であった。南都(奈良)追討である。
第6章 p237
 二十一日には、除目が行われている。の高倉上皇が政務をとれない上に、後白河法皇も謙遜して、あるいは清盛を恐れて政務に関与しようとせず、清盛も介入しなかった。結局摂政基通が主催する形となったという(『山塊記』)。一般政務は摂政に委ねるという原則を清盛は堅持していたようである。
この会議の議題は元木書によると除目(人事の決定)であり、その次につながる文章から考えると南都追討の事は議題に上がっていないようである。文章だけまねして、内容を改竄している、元木書丸写しのなかでも最悪の文章。
※文庫版(三)p294では削除。ついでに指摘すれば「高倉帝」とありますが、高倉院は「帝」じゃありませんけどねー。

 

以上で似たような文章の抜き出しを終わります。
言葉の順序を並び替える、言い回しを多少変えるという小手先の工夫はしてあっても、文章丸写しという感は拭えません。
司馬氏の著作の「参考」と元木書の丸写しでかなりの部分が構成されているような章もありました。
むろん、専門家による研究書を読み、その「内容」を参考にするのは歴史小説家として当然のことです。
しかしながら、文章をまるごと「書き写し」に近い形で書くというのは、小説家としてはいただけません。文章によって多くの人々に感動を与えるのを生業としているならば、もっと内容を咀嚼した上で、自分の言葉にして表現すべきだったと私は思います。

一方、元木氏の著作の「主張内容」がどの程度参考になったのかといえば、上記を除いた部分で一部参考にしている部分も見受けられますが、元木氏の著作内容とかなり異なる記載も池宮平家の中で数多く見受けられます。また、上記のように、「文章」のみ参考にして「内容」を改竄している例もありますので、もう何と言っていいのやら・・・

勿論、独自の解釈をするというのも歴史小説では許されることですが、それを行うには、豊富な知識とその時代に対する深い理解と分析そして地道な独自の研究が必要です。しかしながら、池宮氏のこの時代に対する知識は不十分のように思えます。ご自身があとがきのなかで「わからないことだらけ」と書かれていますし、ある程度「平家」の時代について知識のある読者ならば、(基本的な事を含めて)首を傾げてしまうようなおかしな記載内容が同書にはたくさん書かれています。
失礼な事を書かせていただきますが、池宮氏は「参考文献」の利用、活用の仕方が間違っているのではないかという気が致します。

km 記

 

2004/03/20 up
2005/03/06 更新

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