池宮彰一郎 『平家』 |
司馬遼太郎 『義経』 |
p7
まず京の平家を覆滅するのが先決ではないか。京の平家を倒せば、坂東の平家勢力など自然消滅してしまう。
※文庫版(三)p239では太字箇所削除、書換。 |
まず、京の平家を覆滅するのが先決ではないか。平家を倒せば、関東の平家勢力など自然に根が枯れてしまう。 |
p113
「なるほど、叔父御、上策だ」
気のよい義仲は、行家に手柄を立てさせてやろうと、一部の兵を割き与えた。
「恩に着る。さすが木曽は情に厚い」
行家は、義仲軍を離れ、伊賀を通り、大和に入った。その途次、さかんに兵を募った。
「応ずる者は、群れをなすだろう」
行家の思惑は的中した。倶利伽羅峠の奇計や篠原合戦で源氏が大勝した噂を聞きつけ、物情騒然たる状況となりつつあった。
「この旗の下に集まれ。天下を制するは源氏ぞ、参陣に遅れるな」
行家は、その中に源氏の白旗を掲げた。
兵は、忽ち参集した。更に行家が新宮十郎と名乗った関係で、熊野や吉野の神領の武士までが、風を望んで続々と集った。※文庫版(四)p12では太字箇所削除、行数省略書換。 |
「いいとも、叔父御」
と、肉親には無欲で同族に対する政治的痴呆ともいうべき義仲は、「叔父御のいうことはもっともだ」と言い、北陸の兵の一部をさきあたえてやった。(略)
「おなじ甥でも頼朝とはちがい、木曽は、大きに叔父孝行だ」
とほめてやり、ひとあしさきに北陸を出発し、伊賀、大和に入り、そこで大いに兵を徴募した。
(いくらでも兵があつまる)
という自信が行家にはあった。北陸倶利伽羅峠での平家の敗北は近畿にもつたわり、伊賀や大和の土豪や無頼漢たちも、土地の平家系の国司や目代に反乱をおこし、諸方でざわめき立っていた。そこへ行家がやってきて源氏の白旗をかかげ、
「これからは源氏の世である。名簿を出しおくれて悔いを残すな」
と吹聴してまわったため、たちまち風をのぞんで、来会し、さらに行家が新宮にいた関係で縁故の深い熊野や吉野の神領の武士たちが続々と傘下に入ったため、大いにふくれあがった。 |
p114
もっとも頼朝の坂東勢と比べると、かなり格下である。坂東に発達した武士は武芸と馬術を練磨し、武士たる倫理を厳に守る。それが信州、北陸では未成熟で、武勇も粗野である。更に近畿に至ると武勇は単なる乱暴、狼藉に過ぎず、土地(所領)を持たぬならず者が大半である。
※文庫版(四)p12では削除。 |
もっとも頼朝の坂東軍とはちがい、おなじ武士とはいっても近畿や北陸の兵は良質とはいえないであろう。坂東に発達した武士のモラルは近畿や北陸では未成熟で、武勇も格段に劣り、しかも応募人数の中には土地ももたぬあぶれ者が多い。 |
p117
その義仲から、至急出頭せよと言ってきた。
――出頭とは、何だ。
向ッ腹を立てたが、無視するほどの度胸はない。
※文庫版(四)p15では削除。 |
そこへ義仲から使いがきた。来い、という。
(来いとはなにごとだ)
と行家は不服であったが、(略)したがわざるをえない。 |
p119
義仲は、行家が先に進もうとしていることに気付いた。
義仲も、宮中では、先に進む者が上位であることぐらいは知っている。行家が自分より上だということを、公の場で示そうとしている。それを許せばこれから授けられる位階・官職が決定的になるであろう。
――何たる叔父御……。 (略)
――負けてたまるか。
義仲も足を速めた。
負けじと行家も進んだ。宮中の作法では、恐懼を形に表わし、静々と足を進めるのが習いである。両人は摺り足で競い合った。鎧の袖や草摺が触れ合い、気を弾ませ、互いに一歩でも先んじようと進んだ。
※文庫版(四)p17では削除。 |
行家が自分よりさきに進もうとするのである。
(この叔父め)
と、さすがに義仲は腹が立った。義仲でも宮廷に入れば人間の序列があるということは知っている。さきにすすむ者が上であり、行家は一足でも二足でもさきに進むことによって源氏の族党内では自分のほうが上だということを、法皇以下の宮廷人に印象づけようとしているのであろう。もしさきに進めばこの権威の場で公認されたことになり、あとあとの位階にひびいてくる。(略)負けてはならぬ。義仲も足を早めた。
行家も、足をはやめた。
かといって走りだすわけにはいかない。宮廷の庭では歩く速度は遅々とせねばならぬ。朝威を畏れかしこむがごとく目をふせ、足を小きざみにし、畏れかしこみつあゆむのが作法であらねばならない。両人、その制限のなかで汗をかき、気をはずませ、たがいに肩をすりつけ揉みあうようにして競いすすんだ。 |
p128
義仲・行家は、ともに従五位下である。
義仲は、左馬頭。越後守兼任。
行家は備後守。
左馬頭は、かつて源義朝が任ぜられた官職であり、木曽義仲は源氏の棟梁を継ぐものと公認された事になる。※文庫版(四)p20では一部削除、書換。 |
両人とも位は、従五位下である。
義仲は、左馬頭に越後守を兼ぬ。
行家は、備後守。
ということになった。
義仲の左馬頭という官名は、かつては源義朝がもっていたものであり、これに任ぜられたことは木曽義仲こそ源氏の棟梁である、という印象を世間にあたえたかのようであった。 |
p129
天皇ならば昇殿の資格を持たぬ行家を身近にさせるには憚りあるが、法皇なら融通が利く。行家を侍臣の如く扱った。
軽忽な行家は、親しく声を掛ける法皇に気を緩め、重大事を洩らした。近頃京に滞留している木曽勢が、日ごとに減少しつつあるという。
※文庫版(四)p22では削除。 |
この点、法皇の位置はゆうづうがきく。天皇ならば昇殿の身分でない者を近づけることができないが、(略)
かつ法皇は、行家から、義仲の重大な軍事機密をきいた。
なんと、義仲の軍は、激減しているという。 |
p129
法皇は、持ち前の策謀を開始した。源氏にゆかりの神護寺の文覚上人や猫間中納言光高、はては鼓判官知康らに命じ、義仲に平家追討を迫った。
平家追討は院宣であり、京に居座って動かぬのは奇怪である、と言うのである。
※文庫版(四)p22では削除。 |
法皇は、行家をさがらせ、ただちにその策謀活動を開始した。神護寺の文覚や猫間中納言光高、鼓ノ兵衛知康などをもって義仲を説かせ、
「なぜ平家を討たぬのか」
と責めしめた。すでに京都進駐二ヵ月というのに、居すわって居食いのみをし、かんじんの平家追討の腰をあげようとせぬのは奇怪である。平家追討は院宣であり、おそれながら院宣にそむくことではないか。 |
p130
法皇が入手している情報では、瀬戸内に避退した平家軍は、瞬く間に兵力を回復し、在京の頃に倍するほどの隆盛となり、坂東源氏を凌ぐほどの勢威を築き上げている。
――それに引き替え義仲軍は、このままでは立ち枯れてしまうのではないか。
※文庫版(四)p23では削除。 |
法皇が得ている情報では、瀬戸内海沿岸一円の地盤に拠った平家は、都にいたころよりもはるかに兵威があがり、戦備もととのい、強大な軍事圏をきずきつつあるという。葉が落ちて冬木のようになった義仲軍がこれに立ちむかえば、逆に粉砕され、消滅してしまうのではないか。 |
p131
「それがしが参りまする」
「それは殊勝である。して、いつ出陣するか」
「明日、早暁に」
と、義仲は反射的に答えた。答えざるを得なかった。
「では、節刀を与える、励めよ」
と法皇は、用意しておいた御剣を下賜されて、退出を許した。※文庫版(四)p24では削除。 |
「それがしが、参りまする。それがしこそ、西海へまかり向かうべく候」
「よくぞ申した」
とも法皇はいわず、即座に
「されば、発向はいつであるか」
と、日を決めさせた。(略)
「あす、早暁に」
と、われにもないことをいった。法皇はうなずき、手ずから御剣をとり、勅命による司令官に与える節刀として義仲に賜うた。 |
p136
「京へ米を運ぶ」
これは、東海・東山・北陸道の差配権を得る時、頼朝が朝廷に約束した事柄である。飢えの続く京へ年貢米を運ぶのは当然の努めである。
米輸送には、当然護衛が必要である。その軍勢の指揮に、義経が任命された。
――木曽殿に、どう対処せよと言うのだ。
義経が質問する前に、頼朝が機先を制した。
「これは木曽討伐ではない。院御所への奉公である。構えて合戦はならぬ」
義経は半ば安堵し、半ば失望した。
※文庫版(四)p39では「飢えの続く京へ年貢米を運ぶ・義経は安堵」以外削除。 |
「京へ、米をはこべ」
命令とはそれである。京の貴族たちは飢えている。頼朝は後白河法皇への約束によって大量の坂東米を運ばねばならず、そのためには護衛の軍勢が必要であった。その輸送指揮官として義経はえらばれたのである。
(木曽どのと戦うのではないのか)
義経は失望した。頼朝はすばやくその不満な心情を見ぬき、
「合戦のためではない。かつ、合戦はしてはならぬ」 |
p137
義経をおのれの名代、つまり代官に仕立て上げた。法皇の要請で米を運ぶ以上、頼朝の名代であらねばならぬ。
※文庫版(四)p39では削除。 |
義経の身分は頼朝の名代、代官、ということであり、この点ではただの輸送指揮官ではない。(略)しかもそれが院(法皇)の要請である以上、隊長は頼朝の代官でなければならず、 |
p138
義経の行軍は非常に遅かった。これは米の荷駄隊を伴っている所為だったと考えられる。それもあって、噂は行程の半ばに達せぬうちに京へ届いた。
※文庫版(四)p41では削除。 |
行軍速度は、荷駄隊と同行しているため、牛のあゆみのようにおそい。しかし沿道のうわさは、この人馬の行軍速度よりもはるかに早く京に達した。 |
p139
「鎌倉の大軍が上洛するとの噂、院におかせられては先刻ご存知でござりましょう。おあかし願いたい」
「存ぜぬ」
※文庫版(四)p42では太字箇所削除、書換。 |
「鎌倉の大軍の上洛の件、よそに探索するまでもなく、院にあっては、先刻ごぞんじでありましょう。そのこと、この義仲へおあかしねがいたい」
「存ぜぬ」 |
p139
義仲は奥州藤原氏と気脈を通じ、鎌倉が大軍を京へ差し向けた際、坂東に乱入する手筈になっていると言うのである。
※文庫版(四)p42では削除。 |
それがし、奥州平泉の藤原秀衡と、すでに気脈を通じておりまする。鎌倉から大軍が発向ししだい、奥州の兵気がうごいて関東に乱入いたしましょう、というのである。 |
p141
法皇は近臣を集めて、対応策を練らせた。叡山に避難を勧める者が圧倒的に多い法皇の近臣の中で、例の判官知康がしゃしゃり出た。この北面の武士あがりの男は、平家が都落ちする際、法皇の避難にひと役買った鼓上手の男である。
※文庫版(四)p47では「避難を勧める近臣」以外削除。 |
法皇は行家を退らせ、近臣にこのことを告げ、対応策を練らせた。院の寵臣のなかに北面ノ武士あがりの例の知康――あだなを鼓ノ兵衛という、あの気はしのきいた男がいる。この七月、平家が都落ちするとき、法皇をにがすために背負い奉って叡山へ走ったあの男である。 |
p142
兵乱の先手を打ってこちらから義仲の本営を襲い、木曽勢を都から叩き出す、と言うのである。
「どこから兵を集める」
「事はつつしめ」
公卿たちは口々にたしなめた。だがすっかりその気になった判官知康は、あれこれと作戦を講じ始めた。
ところが、法皇自らがこの策に乗り気となったのである。この稀代の謀略家は、稚気さかんであり、危険を楽しむ悪壁がある。
その法皇も、ひと言付け加えるのを忘れなかった。
「こちらから兵を起すに当っては、鎌倉の軍勢の行程をよくよく確かめてからにせい」
※文庫版(四)p47では削除。 |
いっそ、義仲の館をこちらから襲い、あの山猿を京から追い落としてしまおう、ということであった。
「軍勢はどうするのだ」(略)
「無謀なことはいわぬものだ」
公卿のひとりが青くなってたしなめたが、しかし鼓ノ兵衛はあきらめず、これについての軍事計画を極秘にすすめはじめた。
法皇も、それには大いに乗り気であった。この陰謀家は、茶目っ気のある性格のせいか、ときにひどく軽率な行動をとる。
「公家の実力をみせてやれ」
と鼓ノ兵衛をそそのかした。が、そうはいうもののこわくもあり、「ただし、鎌倉の軍勢がいつ京に接近する、などといった様子次第がはっきりしてからのことにせよ」と釘だけはさした。 |
p143
覚明は、義仲の知遇に応え、東海方面に探索の手を出しておいたが、その報知が届いた。
(鎌倉勢はこの四日<寿永二年十一月>不破ノ関<現・関ヶ原>を越え、近江に入る。兵力は約五百、輸送の警護に当る)
――なんだ、五百の小勢か。
義仲はかえって驚いた。
近江から次々と諜報が入った。
(義経殿、近江佐々木ノ庄に滞留、しきりと京の様子探索に努める)
―臆病は兄頼朝譲りか。
義仲は、そう確信し、洩らした。だが大夫房覚明は異なる印象を持った。
――あの慎重さは只者ではない。年若ながら案外の戦略家かも知れぬ。
義経は、大夫房覚明が感じとったほどの智略を構えたわけではない。京の義仲とその地盤北陸道の間を断つべく、佐々木ノ庄に滞留したのであった。
※文庫版(四)p48では10行ばかり削除・数行書換。 |
覚明はかねて東海方面に探索を出しておいたが、それがいそぎかけもどっていうのに、
――鎌倉の御曹司九郎義経どのは、この四日に美濃不破ノ関(関ヶ原)を越えたまいぬ。その勢、わずか五百。その用務は関東八カ国の貢米を護送せんがため。
ということであった。
(そうか、その程度か)
と、義仲はむしろ拍子ぬけした。(略)
その後、つぎつぎと確報が入った。七日には近江(滋賀)に入ったという。ところがふしぎなことにその後は動かない。
近江佐々木ノ庄のあたりに忍び隠れ、どうやら京の様子をうかがっている気配であった。
「義経とやらは、臆病なやつにちがいない」
と義仲はそう断定した。が、謀僧の大夫房覚明はそうはおもわず、義経のいかにも隠顕さだかならぬ行動に、なにやらぶきみなものを感じた。
当の義経のほうは、義仲の謀僧が評価したほど、その行動に意図があったわけではなかった。琵琶湖畔の佐々木ノ庄に駐屯したのは、義仲の地盤のひとつである北陸との湖上交通を遮断するためであり、 |
p151
門扉を叩き破って院御所の建物群に侵入した義仲直轄兵は、獰猛さを遺憾なく発揮した。
それに引き替え、
※文庫版(四)では「門」以外削除、書換。 |
木曽兵は大掛矢をもって御門をうちやぶった。義仲が木曽谷からつれてきた直属兵だけに、かれらの勇敢さは人間ともおもえない。
それにひきかえ、 |
p152
仁和寺の僧兵も、法皇を見捨ててかえりみず逃げた。叡山の山法師も日頃の横柄さの手前、院御所内を喚き駆け廻っていたが、瞬く間にその数が減り、一人もいなくなった。
配下の僧兵に見捨てられた形の叡山天台座主明雲は、
※文庫版(四)p53では削除。 |
仁和寺の僧兵をひきいて法皇の御座所を守護していた法親王は、法王を置きざりにして逃げだし、叡山の僧兵たちは平素の広言の手前あちこちわめきながら駈けまわっていたが、次第にいなくなった。
その配下の僧兵から置きすてられた叡山の座主明雲は、 |