池宮彰一郎 『平家』 について・下巻 (ハードカバー版) 3

― 司馬遼太郎『義経』との比較 ―


さらに池宮『平家』下巻と司馬『義経』との類似点検証です。
『平家』下巻では前半が司馬『義経』の「鎌倉の新府」「木曾の猪舞」と非常によく似てます。後半はオリジナルだと思われますが、“新解釈”と”無知”は紙一重というかイコールというか、、、。史実的にはとうに亡くなっている藤原長成が大原御幸まで延々と登場してたり、あまりにバカバカしい記述が多すぎて読書中に吐き気すらしました、ええ。・゚・(ノД`)・゚・。。(2004.8.17)

下巻でも文庫化にあたっての書換が目立ちます。場面ごと削除された箇所も多いですね。しかし何と申しましょうか、恥ずかしい所業ですな。(2005.2.5)

 

★★ 文章の酷似 ★★  

池宮彰一郎 『平家』 司馬遼太郎 『義経』
p7
まず京の平家を覆滅するのが先決ではないか。
京の平家を倒せば、坂東の平家勢力など自然消滅してしまう。
※文庫版(三)p239では太字箇所削除、書換。

まず、京の平家を覆滅するのが先決ではないか。平家を倒せば、関東の平家勢力など自然
に根が枯れてしまう。
p113
「なるほど、叔父御、上策だ」
 気のよい義仲は、行家に手柄を立てさせてやろうと、一部の兵を割き与えた。
「恩に着る。さすが木曽は情に厚い」
 行家は、義仲軍を離れ、伊賀を通り、大和に入った。その途次、さかんに兵を募った。
「応ずる者は、群れをなすだろう」
 行家の思惑は的中した。倶利伽羅峠の奇計や篠原合戦で源氏が大勝した噂を聞きつけ、物情騒然たる状況となりつつあった。
「この旗の下に集まれ。天下を制するは源氏ぞ、参陣に遅れるな」
 行家は、その中に源氏の白旗を掲げた。
 兵は、忽ち参集した。更に行家が新宮十郎と名乗った関係で、熊野や吉野の神領の武士までが、風を望んで続々と集った。

※文庫版(四)p12では太字箇所削除、行数省略書換。


「いいとも、叔父御」
 と、肉親には無欲で同族に対する政治的痴呆ともいうべき義仲は、「叔父御のいうことはもっともだ」と言い、北陸の兵の一部をさきあたえてやった。(略)
「おなじ甥でも頼朝とはちがい、木曽は、大きに叔父孝行だ」
 とほめてやり、ひとあしさきに北陸を出発し、伊賀、大和に入り、そこで大いに兵を徴募した。
(いくらでも兵があつまる)
 という自信が行家にはあった。北陸倶利伽羅峠での平家の敗北は近畿にもつたわり、伊賀や大和の土豪や無頼漢たちも、土地の平家系の国司や目代に反乱をおこし、諸方でざわめき立っていた。そこへ行家がやってきて源氏の白旗をかかげ、
「これからは源氏の世である。名簿を出しおくれて悔いを残すな」
 と吹聴してまわったため、たちまち風をのぞんで、来会し、さらに行家が新宮にいた関係で縁故の深い熊野や吉野の神領の武士たちが続々と傘下に入ったため、大いにふくれあがった。
p114
 もっとも頼朝の坂東勢と比べると、かなり格下である。坂東に発達した武士は武芸と馬術を練磨し、武士たる倫理を厳に守る。それが信州、北陸では未成熟で、武勇も粗野である。更に近畿に至ると武勇は単なる乱暴、狼藉に過ぎず、土地(所領)を持たぬならず者が大半である。
※文庫版(四)p12では削除。

もっとも頼朝の坂東軍と
はちがい、おなじ武士とはいっても近畿や北陸の兵は良質とはいえないであろう。坂東に発達した武士のモラルは近畿や北陸では未成熟で、武勇も格段に劣り、しかも応募人数の中には土地ももたぬあぶれ者が多い。
p117
 
その義仲から、至急出頭せよと言ってきた。
 ――出頭とは、何だ。
 
向ッ腹を立てたが、無視するほどの度胸はない。
※文庫版(四)p15では削除。

そこへ義仲から使いがきた。来い、という。
(来いとはなにごとだ
 
と行家は不服であったが、(略)したがわざるをえない。
p119
 義仲は、行家が先に進もうとしていることに気付いた。
 義仲も、宮中では、先に進む者が上であることぐらいは知っている。行家が自分より上だということを、公の場で示そうとしている。それを許せばこれから授けられる位階・官職が決定的になるであろう。
 ――何たる叔父御……。 (略)
 ――負けてたまるか。
 義仲も足を速めた。
 
負けじと行家も進んだ。宮中の作法では、恐懼を形に表わし、静々とを進めるのが習いである。両人は摺り足で競い合った。鎧の袖や草摺が触れ合い、気を弾ませ、互いに一歩でも先んじようと進んだ。
※文庫版(四)p17では削除。

 行家が自分よりさきに進もうとするのである。
(この叔父め)
 と、さすがに義仲は腹が立った。義仲でも宮廷に入れば人間の序列があるということは知っている。さきにすすむ者が上であり行家は一足でも二足でもさきに進むことによって源氏の族党内では自分のほうが上だということを、法皇以下の宮廷人に印象づけようとしているのであろう。もしさきに進めばこの権威の場で公認されたことになり、あとあとの位階にひびいてくる。(略)負けてはならぬ。義仲も足を早めた。
 行家も、足をはやめた。

 かといって走りだすわけにはいかない。廷の庭では歩く速度は遅々せねばならぬ。朝威を畏れかしこむがごとく目をふせ、を小きざみにし、畏れかしこみつあゆむのが作法であらねばならない。両人、その制限のなかで汗をかき、気をはずませ、たがいに肩をすりつけ揉みあうようにして競いすすんだ。
p128
 義仲・行家は、ともに従五位下である。
 義仲は、左馬頭。越後守兼任。
 行家は備後守。
 左馬頭は、かつて源義朝が任ぜられた官職であり、木曽義仲は源氏の棟梁を
継ぐものと公認された事になる。

※文庫版(四)p20では一部削除、書換。


 両人とも位は、従五位下である。
  義仲は、左馬頭に越後守を兼ぬ。
  行家は、備後守。

 ということになった。
 義仲の左馬頭という官名は、かつては源義朝がもっていたものであり、これに任ぜられたことは木曽義仲こそ源氏の棟梁である、という印象を世間にあたえたかのようであった。
p129
天皇ならば昇殿の
資格を持たぬ行家を身近にさせるには憚りあるが、法皇なら融通が利く。行家を侍臣の如く扱った。
 
軽忽な行家は、親しく声を掛ける法皇に気を緩め、重大事を洩らした。近頃京に滞留している木曽勢が、日ごとに少しつつあるという。
※文庫版(四)p22では削除。

この点、法皇の位置はゆうづうがきく。天皇ならば昇殿の身分でない者を近づけることができないが、(略)
 かつ法皇は、行家から、義仲の重大な軍事機密をきいた。
 
なんと、義仲の軍は、激しているという。
p129
 法皇は、
持ち前の策謀を開始した。源氏にゆかりの神護寺の文覚上人や猫間中納言光高、はては鼓判官知康らに命じ、義仲に平家追討を迫った。
 平家追討は院宣であり、
京に居座って動かぬのは奇怪である、と言うのである。
※文庫版(四)p22では削除。

 法皇は、
行家をさがらせ、ただちにその策謀活動を開始した。神護寺の文覚や猫間中納言光高、鼓ノ兵衛知康などをもって義仲を説かせ、
「なぜ平家たぬのか」
 
と責めしめた。すでに京都進駐二ヵ月というのに、居すわって居食いのみをし、かんじんの平家追討の腰をあげようとせぬのは奇怪である。平家追討は院宣であり、おそれながら院宣にそむくことではないか。
p130
 法皇が
入手している情報では、瀬戸内に避退した平家は、瞬く間に兵力を回復し、在京の頃に倍するほどの隆盛となり、坂東源氏を凌ぐほどの勢威を築き上げている。
 
――それに引き替え義仲軍は、このままでは立ち枯れてしまうのではないか。
※文庫版(四)p23では削除。

 法皇が
得ている情報では、瀬戸内海沿岸一円の地盤拠った平家は、都にいたころよりもはるかに兵威があがり、戦備もととのい、強大な軍事圏をきずきつつあるという。葉が落ちて冬木のようになった義仲軍がこれに立ちむかえば、逆に粉砕され、消滅してしまうのではないか。
p131
「それがしが参りまする」
「それは殊勝である。して、いつ出陣するか」
「明日、早暁に」
 と、義仲は反射的に答えた。答えざるを得なかった。
「では、節刀を与える、励めよ」
 と法皇は、
用意しておいた御剣を下賜されて、退出を許した。

※文庫版(四)p24では削除。


「それがしが、参りまする。
それがしこそ、西海へまかり向かうべく候」
「よくぞ申した」
 
とも法皇はいわず、即座に
「されば、発向はいつであるか」
 と、日を決めさせた。(略)
「あす、早暁に」
 
と、われにもないことをいった。法皇はうなずき、手ずから御剣をとり、勅命による司令官に与える節刀として義仲に賜うた。
p136
「京へ米を運ぶ」
 
これは、東海・東山・北陸道の差配権を得る時、頼朝が朝廷に約束した事柄である。飢えの続くへ年貢米を運ぶのは当然の努めである。
 米輸送には、当然護衛が必要である。その軍勢の指揮に、義経が任命された。
 ――木曽殿
に、どう対処せよと言うのだ。
 
義経が質問する前に、頼朝が機先を制した。
「これは木曽討伐ではない。院御所への奉公である。構えて合戦はならぬ」
 義経は
半ば安堵し、半ば失望した。
※文庫版(四)p39では「飢えの続く京へ年貢米を運ぶ・義経は安堵」以外削除。

「京へ、米をはこべ」
 
命令とはそれである。の貴族たちは飢えている。頼朝は後白河法皇への約束によって大量の坂東米を運ばねばならず、そのためには護衛の軍勢が必要であった。その輸送指揮官として義経はえらばれたのである。
(木曽どの
と戦うのではないのか)
 義経は失望した。頼朝
はすばやくその不満な心情を見ぬき、
「合戦のためではない。かつ、合戦はしてはならぬ」
p137
 義経をおのれの名代、つまり代官に仕立て上げた。法皇の要請で米を運ぶ以上、頼朝の名代であらねばならぬ。
※文庫版(四)p39では削除。

義経
の身分は頼朝の名代、代官、ということでありこの点ではただの輸送指揮官ではない。(略)しかもそれが院(法皇の要請である以上、隊長は頼朝の代官でなければならず、
p138
 
義経の行軍は非常に遅かった。これは米の荷駄隊を伴っている所為だったと考えられる。それもあって、噂は行程の半ばに達せぬうちに京へ届いた。
※文庫版(四)p41では削除。

行軍
速度は、荷駄隊と同行しているため、牛のあゆみのようにおそい。しかし沿道のうわさは、この人馬の行軍速度よりもはるかに早く京に達した。
p139
「鎌倉の大軍が上洛するとの噂、院におかせられては先刻ご存知でござりましょう。おあかし願いたい」
「存ぜぬ」
※文庫版(四)p42では太字箇所削除、書換。

「鎌倉の大軍の上洛
の件、よそに探索するまでもなく、院にあっては、先刻ごぞんじでありましょう。そのこと、この義仲へおあかしねがいたい」
「存ぜぬ」
p139
義仲は奥州藤原氏と気脈を通じ、鎌倉が大軍を京へ差し向けた際、坂東に乱入する手筈になっていると言うのである。
※文庫版(四)p42では削除。

それがし、奥州平泉の藤原秀衡と、すでに気脈を通じておりまする。鎌倉から大軍が発向ししだい、奥州の兵気がうごいて関東に乱入いたしましょう、というのである。
p141
 法皇は近臣
を集めて、対応策を練らせた。叡山に避難を勧める者が圧倒的に多い法皇の臣の中で、例の判官知康がしゃしゃり出た。この北面の武士あがりの男は、平家が都落ちする際、法皇の避難にひと役買った上手の男である。
※文庫版(四)p47では「避難を勧める近臣」以外削除。

法皇は
行家を退らせ、近臣にこのことを告げ、対応策を練らせた。院の臣のなかに北面ノ武士あがりの例の知康――あだなをノ兵衛というあの気はしのきいた男がいる。この七月、平家が都落ちするとき、法皇をにがすために背負い奉って叡山へ走ったあの男である。
p142
 
兵乱の先手を打ってこちらから義仲の本営を襲い、木曽勢を都から叩き出す、と言うのである。
「どこから兵を集める」
「事はつつしめ」
 公卿
たちは口々にたしなめた。だがすっかりその気になった判官知康は、あれこれと作戦を講じ始めた。
 
ところが、法皇自らがこの策に乗り気となったのである。この稀代の家は、稚気さかんであり、危険を楽しむ悪壁がある。
 その法皇も、ひと言付け加えるのを忘れなかった。
「こちらから兵を起すに当っては、鎌倉の軍勢の行程をよくよく確かめてからにせい」
※文庫版(四)p47では削除。

いっそ、義仲の館をこちらから襲い、あの山猿を京から追い落としてしまおう、ということであった。
「軍勢はどうするのだ」(略)
「無謀なことはいわぬものだ」
 公卿
のひとりが青くなってたしなめたが、しかし鼓ノ兵衛はあきらめず、これについての軍事計画を極秘にすすめはじめた。
 法皇
も、それには大いに乗り気であった。この謀家は、茶目っ気のある性格のせいか、ときにひどく軽率な行動をとる。
「公家の実力をみせてやれ」
 と鼓ノ兵衛をそそのかした。が、そうはいうもののこわくもあり、「ただし、鎌倉の軍勢がいつ京に接近する、などといった様子次第がはっきりしてからのことにせよ」と釘だけはさした。
p143
 覚明は
、義仲の知遇に応え、東海方面に探索の手を出しておいたが、その報知が届いた。
(鎌倉
はこの四日<寿永二年十一月>不破ノ関<現・関ヶ原>を越え、近江に入る。兵力は約五百、の警に当る)
 ――なんだ、五百の小勢か。
 義仲は
かえって驚いた。
 近江から次々と報が入った。
(義経殿、近江佐々木ノ庄に滞留しきりと京の様子探索に努める)
 ―臆病
は兄頼朝譲りか。
 義仲は、そう
確信し、洩らした。だが大夫房覚明は異なる印象を持った。
 
――あの慎重さは只者ではない。年若ながら案外の戦略家かも知れぬ。
  義経は、大夫房覚明が感じとったほどの智略を構えたわけではない。京の義仲とその地盤北陸道の間を断つべく、佐々木ノ庄に滞留したのであった。
※文庫版(四)p48では10行ばかり削除・数行書換。

覚明は
かねて東海方面に探索を出しておいたが、それがいそぎかけもどっていうのに、
 ――鎌倉
の御曹司九郎義経どのは、この四日に美濃不破ノ関(関ヶ原)を越えたまいぬ。その勢わずか五百。その用務は関東八カ国の貢米を護送せんがため。
 ということであった。
(そうか、その程度か)
 と、義仲はむしろ拍子ぬけした。(略)
 その後、つぎつぎと報が入った。七日には近江(滋賀)に入ったという。ところがふしぎなことにその後は動かない。
 近江佐々木ノ庄のあたりに
忍び隠れ、どうやら京の様子をうかがっている気配であった。
「義経とやらは、臆病なやつにちがいない」
 と義仲はそう
断定した。が、謀僧の大夫房覚明はそうはおもわず、義経のいかにも隠顕さだかならぬ行動に、なにやらぶきみなものを感じた。
 当の義経のほうは、義仲の謀僧が評価したほど、その行動に意図があったわけではなかった。琵琶湖畔の佐々木ノ庄に駐屯したのは、義仲の地盤のひとつである北陸との湖上交通を遮断するためであり、
p151
叩き破って院御所の建物群に侵入した義仲直轄兵は、獰猛さを遺憾なく発揮した。
 それに引き替え、
※文庫版(四)では「門」以外削除、書換。

木曽兵は大掛矢をもって御門をうちやぶった。義仲が木曽谷からつれてきた直属兵だけに、かれらの勇敢さは人間ともおもえない。
 それにひきかえ、
p152
仁和寺の僧兵も、法皇を見捨ててかえりみず逃げた。叡山の山法師も日頃の横柄さの手前、院御所内を喚き駆け廻っていたが、瞬く間にその数が減り、一人もいなくなった。
 配下の僧兵に
見捨てられた形の叡山天台座主明雲は、
※文庫版(四)p53では削除。

仁和寺の僧兵
をひきいて法皇の御座所を守護していた法親王は、法王を置きざりにして逃げだし、叡山の僧兵たちは平素の広言の手前あちこちわめきながら駈けまわっていたが、次第にいなくなった。
 
その配下の僧兵から置きすてられた叡山座主明雲は、

 

★★ 設定・構成の酷似 ★★

池宮彰一郎 『平家』 司馬遼太郎 『義経』
p13
 と、書状を取り出し、渡そうとした。義政が受け取ろうとした時、書状は両者の手を離れ、橋上に落ちた。
 義政が拾おうとかがみこんだ一瞬、広常は
鎧の脇から抜き放った短刀で、眼前の義政の頸を掻き切った。 

 と、
広常は自分の鎧のわきをさぐって一通の手紙をとりだし、手をのばして義昌にわたそうとしたが、どういうはずみか、はらりと手紙をおとした。やむなく佐竹義昌はかがみ、それを拾おうとした。
 その瞬間、広常は、腰をかがめた佐竹の当主の背へ、ちょうど牛が交尾するようなかっこうでのしかかり、短刀をぬき、義昌の右脇の鎧のすき間へずぶりとさしこんだ。二、三度、はげしく突き刺し、やがて義昌がくずれ伏すや、まだ息があるというのに、その首を掻き切った。
↑上総広常が佐竹義政を討つ場面。『吾妻鏡』には「広常が義政を橋の上に誘引し中央に招き誅す」という程度で、手紙を落としたというような記述はない。このあたりの細部は司馬の創作だが、池宮平家も同じ記述。
※文庫版(三)p244では手紙の件を削除。
p15
 朝の挨拶に罷り出た清重に、頼朝は告げた。
「そちのもてなし、気に入ったぞ。あの女、何と言う名だ
 清重は、薄笑いを浮べて、そっと囁いた。
「よろしければ、度々お使いなされませ。あれはわが妻にござりますれば」
 この一事は、公式の記録『吾妻鏡』に残った。

 翌朝、頼朝は上機嫌で起き、朝の機嫌うかがいにまかり出た清重に、
「あの女の名は、なんという」
 と、そっとたずねた。清重はせかせかと膝をすすめて、お気に入って頂いてこれほどうれしいことはござりませぬ、という旨のことを申しのべ、やがて、
あれは、わが妻にござりまする
 といった。
 この葛西清重の忠勤ぶりはさすがに陣中のひとびとの目にも異様にうつったのだろう、頼朝政権の公式の記録である「吾妻鏡」の記録者も、
 清重、妻ヲシテ御膳ヲ備ヘシム。タダシ実ヲ申サズ。他所ヨリ青女ヲ招クノ由ヲ言上ス。
 と、わざわざ記録している。
↑清重が自分の妻を頼朝の夜伽に進上した話。司馬の文末にあるように『吾妻鏡』によれば「清重は実を申さず『他所より女を招く』と言上した」のであって、「わが妻である」などとは頼朝に告げていないのだが、、、。
※文庫版(三)p245ではこのエピソードを全部削除。
p84
 頼朝は行家宿を提供する気色を示さなかった。鎌倉の臣たちは頼朝に遠慮し、政子・時政に気兼ねして、行家に宿を貸さない。
 ――まさか、野宿もできぬ。
 行家は、窮状を訴えて鶴岡八幡宮の別当屋敷に強引に泊まった。

 行家は、鎌倉にもどったが、とまるべき宿がない。鎌倉の臣たちはみな頼朝に遠慮し、(略)。
顕臣たちもまた頼朝の行家に対する感情を知っており、その頼朝から無用の嫌疑をうけることを避けるために行家に宿をかさない。
「かといって、まさか道ばたで寝るわけにもいくまい」
 
といって鶴岡八幡宮に交渉し、その別当屋敷にとめてもらうことにした。
↑『吾妻鏡』によれば行家は頼朝から松田亭を与えられている。が、両作ともに、宿がなく八幡宮に泊まったとする。
※文庫版(三)p335では削除。
p84
「御拝礼なされ」
 
部屋に飾ってあったのは源家重代の宝物、源太産着ノ鎧と髭切ノ太刀であると言う。(略)
「おわかりか」
 頼朝は言う。宝物を所持する自分は源家の棟梁ある以上、叔父と雖も主従の関係にある。

「ごらんあれ」
 と、頼朝はいった。前にすえられているのは源家重代の鎧「源太ノ産着」と「髭切ノ太刀」のふたつであった。(略)
「これで、おわかりか
 と、頼朝はいった。自分はあなたの甥ではあるが源氏の長者であるゆえ叔父といえども私に臣従してもらわねばならぬ、といった。
↑頼朝が行家に源家累代の品を披露するのは司馬の「創作」。(略)の部分で池宮氏はご丁寧にも「――これは偽物だ」と司馬氏創作を否定している。
※文庫版(三)p335ではこのエピソードを削除。
p117
御所から御召があった。左少弁の光長とかいう小僧っ子が使いに来た
「なに? おぬしのところへか?」
 
意外だった。十郎行家は以前八条院の蔵人という官職名を以仁王から貰ったことがある。八条院は鳥羽天皇と美福門院の間に生まれた第二皇女ワ子内親王で、鳥羽天皇の皇統の正統後継者であったことから、一時女帝に擬せられたこともあり、世襲の荘園を数百ヵ所も持ち、その富裕は並ぶ者なしと言われた。
 蔵人という職は、使い走りの小役人だが、八条院の勢力は絶大である。悪い背景ではない。
 ――しかも、おれには、真っ先に京都を制圧したがある。
 
その行家を差し置いて、甥の義仲を召すとはどういう訳か、院の了簡がわからない。

かつ、行家はほんの形ばかりの職名ながら「八条院の蔵人」という呼称以仁王からもらっている。この八条の女鳥羽天皇第二皇女ワ子内親王をさし、世襲の荘園を数百ヵ所ももち、京の貴婦人で、この女院ほど豪富をほこる存在はない。(略)行家がこの女院の蔵人、つまり使い走りの小役人という職名をもつ以上、女院もわるいようにはせぬであろう。
しかもいまはがある)(1p略)

「いやさ、(法皇)からのおよびよ。いま院のお使いとして左少弁光長というのがきたわ」
「当所に?」
 行家は不服だった。院の使者が義仲のところへきて自分の陣所には来ぬというのは解しかねる。
↑史料・平家諸本では、行家・義仲がどのようにして院御所に招集されたかというのは明確ではない。が、両作ともに左少弁光長が義仲の陣所にのみ訪れ、行家が不満をいだく。
また2chでの指摘によれば八条院は鳥羽院の第[二]皇女ではなく第[四]皇女。ちなみに第二皇女は統子内親王で、司馬作の誤りをそのまま丸写ししたことがうかがえる。
※文庫版(四)p14〜15では全部削除。
p118
色白く、鼻筋通り、(略)唐綾縅の豪奢な鎧は陽光にえ、高紐にかけて背に負った兜、厳物造りの太刀、背を飾る切斑の矢と小に抱えた重藤の弓はみごとな調和を示す。(略)
 
馬首を並べた行家は、対照的にひどく見劣りした。渋紙のように日焼けした皺面は、人柄そのままに野卑というしかない。緋縅の派手なはそれを強調するかのようである。

馬を打たせてゆく義仲の顔は、その粗暴さに似あわず色白く眉長く、唐綾縅の豪華なよろいがよくっていた。兜は高ひもにかけて背に負い、さらにはにはきりふの矢をおい、重藤の弓わきにはさみ、腰にはいか物づくりの太刀をはいている。(略)
 
利口なはずの行家のほうが、むしろ野卑な顔つきにうまれている。行家の甲冑は吉野の蔵王堂で借りた緋縅の大で、すでに四十をこえた行家には緋の色はあまりうつらない。
↑義仲と行家の装束は『平家物語』そのままの記述ではあるが。行家が義仲に比べ野卑で見劣りしたというくだりは創作である。
※文庫版(四)p16では行家に関する記述を書換。
p120
更に両名に宿所が下賜された。木曽義仲は六条西洞院の大膳大夫業忠の空屋敷。十郎行家は法住寺殿の南殿、萱御所内である。
 行家を院御所近くに置き、
取り込もうとする法皇の企みが、ありありと見てとれる。

さらには」
 と、お言葉がつづく。両人の宿所のことである。宿所をたまわる、というのであった。
 木曽義仲には、六条西洞院にある大膳大夫業忠が空き屋敷。
 十郎行家には法住寺殿の南殿
と通称されている萱の御所。
 
それぞれを、賜る。
 義仲の宿所は法皇の御所から遠い。行家の宿所は法皇御所のとなりである。法皇は行家をもって親衛隊長にしたようなものであった。 
↑宿所は院側から自発的に下賜されたのではなく、義仲側から申し出てから賜ったもの。平家諸本・史料では大膳大夫「業忠(成忠)」「信業」と混乱しているが、いずれにしろこの2人は親子であり屋敷は「空き屋敷」ではないようである。また法皇の意図も創作。
※文庫版(四)p18では「京での宿が無いことを申し出た両名に」が冒頭に付け加えられ、空屋敷の「空」が削除されている。
p141
――木曽は、われらが参加せずとも、兵変を起すであろう。
 
彼らは一様にそう思った。義仲を見捨てるからには、恃むところは法皇しかない。皆競って院御所に注進した。密は悉く法皇の知るところとなった。
 
真っ先に注進したのは、十郎行家である。

 ――木曽は
それでも強行するであろう。
 
という印象をだれもが持った。この軍の内容はその日のうちに法皇へ筒抜けになった。密告者は、叔父の新宮十郎行家である。
↑義仲の軍議内容を行家が法皇に密告したという史料はない。
※文庫版(四)p43〜44では削除。
p145
京の元官人である中原親能という者を同行させた。中原親能は京に潜入し、後白河法皇に拝謁した。
「頼朝自らの軍
勢は何処におるのだ。おれの窮するのを楽しみおるのか」
 
法皇は、皮肉をこめて憤りを表わした。
「恐れながら、院宣が下されぬ故と存じます」
 親能は、頼朝
の怯えをそう取り繕った。

同行したもと京の官人である中原親能は
近江からひそかに京に入り、夜陰、小路の軒下をつたうようにして法住寺御所に入り後白河法皇に拝謁した。(略)
「なぜ頼朝みずからがをひきいて京を救いに来ぬ。まろの窮状を察せよ」
 
といった。中原親能は(頼朝は木曽をおそれている)とはいわず、
「院宣が
いただけぬからでございます」
 と、別な理由をいった。
↑義経と同行した中原親能が、事前に法皇に拝謁したことをしめす史料はない。
※文庫版(四)ではこの周辺4p削除し大幅に書換。この箇所が収載されるとしたらp49あたりか。
p147
「行家自らが平家追討に発向仕りまする」(略)
「それで、義仲は何と申した」
 法皇の問いに、行家は声を振り絞った。
「それがしの一存にござります。義仲は平家追討の戦に不覚をとって大敗を喫し、逃げ帰った男、こたびの出陣は、その後始末を致さんがためにござりまする」
「殊勝である」
 
百戦錬磨の法皇は、兵変前に京から遁走しようという行家の魂胆をとうに見抜いていた。
 
義経軍が京に迫っている。鎌倉の頼朝は行家を憎み、身柄を渡せと義仲に要求した事がある。ほかの源氏のように内通する事もできない。義仲に従えば使い捨てにされ、義経と戦って死を遂げるだろう。かといって法皇に付いて木曽勢と戦するのも怖ろしい。文字通り進退谷まった行家は、最後の智恵をふり絞っての京退散を策したのであろう。

「わが一手をもって、平家追討しとうござりまする」(略)
「義仲は
、ゆるしたか」
(略)行家は、
「ゆるすもゆるさぬも」と大声でいった。「義仲はなにしろ平家追討の院宣をないがしろにし、途中で陣をほうり出して京へもどったでござる。れがしが義仲の不忠のつぐないをするためにかように出立いたしまする」
「それは苦労なことだな」
(略)魂胆は知れている。
(こいつ、京を遁げる気だな)
 ということであった。(略)鎌倉の頼朝から策士であるとして嫌われ、殺されようとさえした。その鎌倉軍が京にせまっているこんにち、他の近畿の諸源氏のように内々で鎌倉へ通じるわけにもいかない。かといって義仲とともに京都を防衛するには、戦が目にみえているだけにばかばかしくもある。さらに法皇とこれ以上密着していれば法皇に使われ、義仲と市街を演じねばならぬであろう。それには勝つ自信がない。結局は、平家を討つと称してを離れるのが最良である、と芸のこまかい計算をしたにちがいない。 
↑両作とも11月19日におこる法住寺合戦直前の場面として書かれているが、行家が平家軍討伐に出発したのは『玉葉』によれば情勢が緊迫する以前の11月8日頃であり、この頃には既に都にはいない。また行家は11月29日に実際に平家軍と合戦をしたようなので、ここで両作に書かれているように戦を避けるために遁走したわけではないと思われる。
※文庫版(四)p44では太字箇所削除し、11月7日のこととして書換。
p152
生かして捕れ、殺すな
 その絶が、血に狂った木曽兵の耳に入ったかどうかわからない。
 木曽兵どもは、御所の奥の部屋部屋に乱入した。その一室に、貴族と見える中年の法体が突っ伏して震えているのを発見した。
「うぬは院か、答えろ」
 敬語もへったくれもない。嗄れた木曽弁の喚きが意味の通じる筈がない。
 実は、その宗門は、園城寺の長吏職、八条宮円恵法親王であった。

 ――生かして捕れ、殺すな。
 とんでいるが、この修羅場ではかれの愛すべき木曽兵たちの耳には入らぬであろう。木曽兵どもは御所の奥へ奥へと進んだ。ある部屋の杉戸をあけてとびこんだ木曽兵は、そこにうずくまっている法体の中年の貴族に目をみはり、真っ赤な口をあけて叫んだ。
(法皇)
 そういったが、敬語も使えずそのうえひどい木曽なまりで相手には通じない。じつはこの宗門貴族は、園城寺の長吏職にある八条宮円恵法親王であった。
↑両作とも、円恵法親王が木曽軍に御所の奥で見つけられ、この後に惨殺される。しかしこの法親王の最期は史料により諸説あるが、総合すると崋山寺のあたりで落馬し討たれたらしい。要するに院御所で発見されたわけではなく、このやりとりも創作。
※文庫版(四)p54では上記指摘のとおり「崋山寺辺りで落馬し斬首」と書換。ここまでくると考証協力料でもいただきたいですわなw
p153
すかさず、別の刃が法親王の頭を叩き割る。手を足を斬り落す。法親王も下臈もずたずたに、膾のように斬り刻まれてしまった。

法親王の
背へ斬りつけた。背がえびなりにまがったところを、頭を斬り、さらに手を斬り、なますのように殺してしまった。
↑前項の続き。円恵法親王最期の場面。『愚管抄』に「手を斬られ」という記述はあるが、「なますのように」のくだりは創作。
※文庫版(四)p54では削除。

 

 

2003/08/17 up
2005/02/05 更新

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