池宮彰一郎 『平家』 について 5

―その他の参考文献との比較―


文庫版発行にあたり、吉川『新平家』司馬『義経』元木『平清盛の戦い』との類似指摘箇所を修正して、出版サイドは「これでOK」と思っているかもしれません。
でも下巻に記載されている参考文献のうち2冊とあらためて比較してみましたら、元木著作盗用ほどではないにしても、こちらも結構な部分が似てますね。叙任の年号記述とはいえ、安田元久著作をひたすら丸写しというのはいかがなものでしょう。この記述の仕方では引用の基準を満たしてないと思いますし、やはり人様の文章をパッチワークしてるだけなのでは。(2005.2.5)


池宮彰一郎 『平家』 安田元久 『平家の群像』
上巻p318 文庫版(二)p31
 兄弟では、経盛が相応の年齢だが、実直だけが取り柄で、二十歳(久安六年・一一五〇)従五位下に叙せられ、保元元年(一一五六)、乱に功あった清盛の推挙で安芸守、続いて常陸介を経て平治元年(一一五九)、乱の直前に伊賀守に転じ、永暦元年(一一六〇)、清盛が正三位に叙せられると、その恩恵に浴して正五位下にすすんだ。
 話は多少先走るが、それ経盛は、太皇太后宮大進、若狭守、皇太后宮亮、左馬権頭、内蔵頭などを歴任し、嘉応二年(一一七〇)に四十七才で従三位・非参議に叙任された。その年、清盛の嫡子重盛は、三十才ですでに正二位権大納言になっていたことから推量すると
p99
経盛久安六年(一一五〇)六月、二十従五位下に叙れ、保元元年(一一五六)安芸守、つづいて常陸介をへて平治元年(一一五九)には伊賀守に転じ、永暦元年四月、正五位下にすすんだ。永暦元年といえば、兄清盛が正三位・参議となって、はじめて公卿に列した年である。経盛はその後、太皇太后宮大進、若狭守、皇太后宮亮、左馬権頭、内蔵頭などを歴任し、嘉応二年(一一七〇)に四十七才で従三位・非参議にすすみ、安元三年(一一七七)正月に正三位、翌治承二年(一一七八)皇太后宮権大夫、ついでその翌年には修理大夫を兼ね、養和元年に参議となった。彼が四十七才で従三位となった、清盛の嫡子重盛三十才ですでに正二位・権大納言になっていた年である。
上巻p378 文庫版(二)p106
検非違使は、太政官の組織律令的政治体制の武力的背景となっている警察力である。上皇は親政派を抑えるために、清盛を正三位参議の公卿として、政権の中枢に送りこみ、更に彼を検非違使別当に据えて、警察組織を反親政派に組み入れた。
p55
検非違使は、太政官の組織――律令的政治体制――の武力的背景となっている警察力である。上皇は親政派を抑えるために、清盛を公卿として政府内に送りこみ、しかも彼を検非違使別当に据えて、警察組織の中から親政派の勢力を排除してしまったのである。
上巻p378 文庫版(二)p106
「清盛
は、院政派と親政派との間を、あちらにも、こちらにも上手に奉仕しているうちに、いつしか後白河上皇の腹心となり、昇進を速めた」という意味の文章が、『愚管抄』にある。清盛の政界遊泳術が巧みであったことを物語る。
 その後の清盛の昇進は異例さであった。応保元年(一一六一)に権中納言、翌二年に従二位に進み、永万元年(一一六五)二条帝崩御を機に、権大納言となった。
 少し先走るが、あえて記すと、仁安元年(一一六六)十一月、正二位・内大臣となり、次の仁安二年には右大臣・左大臣を経ずして太政大臣となり、従一位に進んだ。平家の躍進は平治の乱に始まるという。わずか八年の間に清盛は、人臣最高の位階に至った。
p56
彼が慎重な性質の持ち主であって、政界遊泳が上手であった結果が、このような異例の昇進につながったのである。『愚管抄』にも、「清盛院政派と親政派との間を、あちらにも、こちらにも上手に奉仕しているうちに、いつしか、後白河上皇に利用されて、昇進を速める結果となった」という意味のことが述べられているのである。
 こうして、その後の清盛の昇進は早く、応保元年(一一六一)権中納言、その翌年に従二位に進み、永万元年(一一六五)には権大納言となった。さらにその年には正二位・内大臣となり、次の仁安二年(一一六七)には左・右大臣を経ず太政大臣となり、従一位に進んだ。平治の乱から、わずか八年の間に、人臣最高の官にまで至ったわけである。
上巻p379 文庫版(二)p108
 重盛の位のあとを辿ってみる。
 久安六年(一一五〇)十二月、蔵人に登用、十三歳。翌年四月従五位下久寿二年(一一五五)七月中務少輔。保元二年(一一五七)、乱平定の功により従五位上権大輔。更に同年十月正五位下左衛門佐保元三年(一一五八)遠江守任。
 それから、平治の乱が発生する。
 平治元年(一一五九)十二月伊予守永暦元年(一一六〇)正月左馬頭。十一月内蔵頭。応保二年(一一六二)十月右兵衛督長寛元年(一一六三)正月、従三位非参議。同二年(一一六四)二月正三位。同三年(一一六五)五月参議に加わる。この年、重盛は二十歳である。 
p74
 重盛の官位の昇進のあとをたどると、久安六年(一一五〇)十二月、十四才で蔵人となり、翌年四月従五位下久寿二年(一一五五)七月中務少輔、ついで保元二年(一一五七)には従五位上となり、権大輔にすすみ、さらに同年十月正五位下左衛門佐保元三年(一一五八)に遠江守ねた。そして平治の乱の功により、同年十二月伊予守に任じられ、その後、永暦元年(一一六〇)正月左馬頭十一月内蔵頭応保二年(一一六二)十月右兵衛督と歴任し、長寛元年(一一六三)正月、従三位非参議となり、同二年(一一六四)二月正三位、翌永万元年(一一六五)五月参議へと累進した。この年、重盛は二十才である。
上巻p380 文庫版(二)p109
 彼の邸宅は、六波羅邸地の東端、東山の小松谷に近く、「小松第と呼ばれたため、自身も小松殿(後には小松内大臣)と称された。後年、驕慢・横暴な人物の多い平家一門の中で、彼のみはただひとりの誠実・温厚な人物として、文献にその名を残すに至る。『百練抄』に「武勇、時輩ニ軼グルトイヘドモ心操ハ甚ダ穏カナリ」とあり、
p74
さて、この重盛は、平家一門が六波羅一帯を占拠して栄華をきわめた頃、その地区の東端に近く小松第と呼ばれる屋敷に住んでいた。そのため、小松内大臣などと呼ばれ、また小松といえば、重盛一門の人々の通称ともなっていた。そして『平家物語』や『源平盛衰記』の世界では、この「小松の大臣」重盛が、驕慢・横暴な人物の多い平家一門の中で、ただひとりの誠実・温厚な人物となっている。(略)『百練抄』にも重盛を評して、「武勇、時輩に軼ぐといへども心操は甚だ穏かなり」とあり、

 

 

池宮彰一郎 『平家』 週刊朝日百科1 日本の歴史『源氏と平氏』
下巻p302 文庫版(四)p238
最も力を添えたのは肥前松浦党である。
 松浦党の始祖は嵯峨源氏である。源久という一字名の宇野御厨の検校が、下松浦郡志佐郷に土着した宇野御厨は大宰府に属し、内裏に介を献上する役目で、住人を贄人と呼ぶ。筑紫にあっては筑前・筑後・肥前の複雑に入りこんだ海辺に住居し、わずかな田畑を切り開き、主に業をもって生業とした。宇野御厨も肥前松浦郷で構成された。
 浦々や島々に分かれて暮すその与党は、海夫と呼ばれる漁民を支配し、二、三艘ずつ集まったものの集団を一類と呼び、更にその一類が幾つか集合したものが、大平戸党、小浦党、などと、名を名乗る。そうした海民集団の総合結社が松浦党であった。
 松浦党は、最後まで家を離反せず、来るべき壇ノ浦に於ては家船団の主力として戦った。
p21
典型は、「松浦党」と通称された肥前国の松浦一族であろう。この一族の松浦郡との関係は、十一世紀中頃、源久という一字名の嵯峨源氏宇野御厨の検校として下松浦郡志佐郷に土着したのにはじまるといわれている。宇野御厨は大宰府を通じ、天皇家に貝を贄として貢進する御厨で、それを構成した贄人筑前・筑後・肥前の広大な水域で活動する撈民であった。(略)
久の子孫たちは細かく切れこんだ松浦の浦々や五島の島々にわずかな田畠を開いて住みつき、宇野御厨もこうした肥前の田畠で構成された。(略)
海夫と呼ばれる海民集団を従えていた。二、三艘の単位の船がいくつか集まった一類」、それがさらにいくつか集合し大平戸党、小浦党、今富党などの「」をなす海夫は、(略)
 松浦党は、結局は氏と運命はともにすることなく生きのびるが、壇の浦いでは氏水軍の主力として登場する。
下巻p320 文庫版(四)p260
 壇ノ浦合戦は早朝卯(午前六時頃)に始まり、折柄のに乗った平家が午前中有利に進み、潮の流れに逆らう源氏は圧倒され続けたが、巳ノ下刻(午前十一時頃)、潮流がに反すると、源氏は西への流を利用して反撃し、遂に平氏が壊滅したというのが、合理説明とされている。
 果たして、然るか。
 まず、当日の潮流は小潮の時期で、そう激しい流れではなかった、という学説がある。
 また潮流に乗った両軍軍船は、相対的に同一速度であるため、勝敗にそう影響しない、という見解もある。
 度々出てくる反平家党の摂関九条兼実の日記『玉葉』には、戦後、義経の報告を記している。その大意は「正午に合戦。正午より夕方までの間に、討死・生け捕りの者多数」とある

 

 

p6
大正初年に発表された黒板勝美氏の説で、海軍の調査によって、合戦の当日、午前五時すぎ、西へ最も速く流れた潮流はやがて東方へ反転し、午前十一時過ぎに八ノットの速さに達する。しかし流れは再び逆転して午後五時すぎには西方への流れが最高となるとした上で、午前中に行動を開始した平氏軍は始め東への潮流に乗じて優勢だったが、源氏軍はよく防戦し、午後三時すぎから逆転の始まる西への流れを利用して反撃に出てついに平氏軍を壊滅させたと論じ、いかにも合理的な説明としてひろくうけ入れられた。
 しかし早朝卯刻から開戦という『平家物語』や、平氏の敗北を正午ごろとする『吾妻鏡』の記述では、黒板説はとても成り立たない。そこで黒板氏は、同時代の貴族の日記『玉葉』に義経の報告として「正午に合戦。正午より夕方までの間に、討死・生け捕りの者多数」とあるのこそ正しいと主張する。だが(中略)小潮の時期を少し過ぎたばかりのその日の流れは微弱なものにすぎないとの海上保安大学校(当時)金指正三氏など、その後の専門家の批判は、黒板説を大きくゆるがすものである。
 また船舶史家石井謙治氏は、同一潮流に乗った両軍軍船相対速度同一となるから、科学的には潮流と勝敗とは無関係だと断定され、
 
↑ちなみに『玉葉』の原文は「去三月二十四日午刻、長門国団於合戦、午正自サル(日偏に甫)時至。伐取之者云、生取輩之云、其数不知」である。この要約が上記のように全く同じになるということがあるのだろうか。

 

 


2005/02/05 up

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