池宮彰一郎 『平家』 |
安田元久 『平家の群像』 |
上巻p318 文庫版(二)p31
兄弟では、経盛が相応の年齢だが、実直だけが取り柄で、二十七歳(久安六年・一一五〇)従五位下に叙せられ、保元元年(一一五六)、乱に功あった清盛の推挙で安芸守、続いて常陸介を経て、平治元年(一一五九)、乱の直前に伊賀守に転じ、翌永暦元年(一一六〇)、清盛が正三位に叙せられると、その恩恵に浴して正五位下にすすんだ。
話は多少先走るが、それ以後の経盛は、太皇太后宮大進、若狭守、皇太后宮亮、左馬権頭、内蔵頭などを歴任して、嘉応二年(一一七〇)に四十七才で従三位・非参議に叙任された。その年、清盛の嫡子重盛は、三十三才ですでに正二位、権大納言になっていたことから推量すると |
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経盛は久安六年(一一五〇)六月、二十六才で従五位下に叙され、保元元年(一一五六)安芸守、つづいて常陸介をへて平治元年(一一五九)には伊賀守に転じ、翌永暦元年四月、正五位下にすすんだ。永暦元年といえば、兄清盛が正三位・参議となって、はじめて公卿に列した年である。経盛はその後、太皇太后宮大進、若狭守、皇太后宮亮、左馬権頭、内蔵頭などを歴任して、嘉応二年(一一七〇)に四十七才で従三位・非参議にすすみ、安元三年(一一七七)正月に正三位、翌治承二年(一一七八)皇太后宮権大夫、ついでその翌年には修理大夫を兼ね、養和元年に参議となった。彼が四十七才で従三位となった年は、清盛の嫡子重盛が三十四才ですでに正二位・権大納言になっていた年である。 |
上巻p378 文庫版(二)p106
検非違使は、太政官の組織(律令的政治体制)の武力的背景となっている警察力である。上皇は親政派を抑えるために、清盛を正三位参議の公卿として、政権の中枢に送りこみ、更に彼を検非違使別当に据えて、警察組織を反親政派に組み入れた。 |
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検非違使とは、太政官の組織――律令的政治体制――の武力的背景となっている警察力である。上皇は親政派を抑えるために、清盛を公卿として政府内に送りこみ、しかも彼を検非違使別当に据えて、警察組織の中から親政派の勢力を排除してしまったのである。 |
上巻p378 文庫版(二)p106
「清盛は、院政派と親政派との間を、あちらにも、こちらにも上手に奉仕しているうちに、いつしか後白河上皇の腹心となり、昇進を速めた」という意味の文章が、『愚管抄』にある。清盛の政界遊泳術が巧みであったことを物語る。
その後の清盛の昇進は異例の速さであった。応保元年(一一六一)に権中納言、翌二年には従二位に進み、永万元年(一一六五)二条帝崩御を機に、権大納言となった。
少し先走るが、あえて記すと、翌仁安元年(一一六六)十一月、正二位・内大臣となり、次の仁安二年には右大臣・左大臣を経ずして太政大臣となり、従一位に進んだ。平家の躍進は平治の乱に始まるという。わずか八年の間に清盛は、人臣最高の位階官職に至った。 |
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彼が慎重な性質の持ち主であって、政界遊泳の術が上手であった結果が、このような異例の昇進につながったのである。『愚管抄』にも、「清盛が院政派と親政派との間を、あちらにも、こちらにも上手に奉仕しているうちに、いつしか、後白河上皇に利用されて、昇進を速める結果となった」という意味のことが述べられているのである。
こうして、その後の清盛の昇進は早く、応保元年(一一六一)秋には権中納言、その翌年に従二位に進み、永万元年(一一六五)には権大納言となった。さらにその翌年には正二位・内大臣となり、次の仁安二年(一一六七)には左・右大臣を経ずに太政大臣となり、従一位に進んだ。平治の乱から、わずか八年の間に、人臣最高の官にまで至ったわけである。 |
上巻p379 文庫版(二)p108
重盛の位階官職のあとを辿ってみる。
久安六年(一一五〇)十二月、蔵人に登用、十三歳。翌年四月、従五位下。久寿二年(一一五五)七月、中務少輔。保元二年(一一五七)、乱平定の功により従五位上、権大輔。更に同年十月、正五位下、左衛門佐。保元三年(一一五八)遠江守、兼任。
それから、平治の乱が発生する。
平治元年(一一五九)十二月、伊予守。永暦元年(一一六〇)正月、左馬頭。十一月、内蔵頭。応保二年(一一六二)十月、右兵衛督。長寛元年(一一六三)正月、従三位、非参議。同二年(一一六四)二月、正三位。同三年(一一六五)五月、参議に加わる。この年、重盛は二十八歳である。 |
p74
重盛の官位の昇進のあとをたどると、久安六年(一一五〇)十二月、十四才で蔵人となり、翌年四月に従五位下、久寿二年(一一五五)七月に中務少輔、ついで保元二年(一一五七)には従五位上となり、権大輔にすすみ、さらに同年十月正五位下・左衛門佐、保元三年(一一五八)には遠江守を兼ねた。そして平治の乱の功により、同年十二月伊予守に任じられ、その後、永暦元年(一一六〇)正月に左馬頭、十一月に内蔵頭、応保二年(一一六二)十月右兵衛督と歴任し、長寛元年(一一六三)正月、従三位・非参議となり、同二年(一一六四)二月正三位、翌永万元年(一一六五)五月参議へと累進した。この年、重盛は二十九才である。
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上巻p380 文庫版(二)p109
彼の邸宅は、六波羅邸地の東端、東山の小松谷に近く、「小松第」と呼ばれたため、彼自身も小松殿(後には小松内大臣)と称された。後年、驕慢・横暴な人物の多い平家一門の中で、彼のみはただひとりの誠実・温厚な人物として、文献にその名を残すに至る。『百練抄』に「武勇、時輩ニ軼グルトイヘドモ心操ハ甚ダ穏カナリ」とあり、 |
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さて、この重盛は、平家一門が六波羅一帯を占拠して栄華をきわめた頃、その地区の東端に近く、小松第と呼ばれる屋敷に住んでいた。そのため、彼は小松内大臣などと呼ばれ、また小松といえば、重盛一門の人々の通称ともなっていた。そして『平家物語』や『源平盛衰記』の世界では、この「小松の大臣」重盛が、驕慢・横暴な人物の多い平家一門の中で、ただひとりの誠実・温厚な人物となっている。(略)『百練抄』にも重盛を評して、「武勇、時輩に軼ぐといへども心操は甚だ穏かなり」とあり、 |