池宮彰一郎 『平家』 |
司馬遼太郎 『義経』 |
p182
大番、という。三年交代で都の警備を務める。
すべての費用を負担した上に、都の権勢者に様々な品を献上し、荘園外のおのれの開墾地を私有することの認可を得る。
警備は名目で権門に仕え、供し、普段は下僕同様に私的に酷使される。三年の大番勤務で地方武士は家産をはたいたというほど、この負担は非常なものであった。※文庫版(二)p346では太字箇所一部削除・書換。 |
都に出ると権門の者から下男同然にあつかわれ、その走り使いをするような奉公をする。しかも経費は自前で、棒給をもらわぬどころか、逆に金銀や田舎の物産を都にもって行って献上し、それによってようやく自分の開墾地の私有を黙認してもらっている。
大番
という仕事があった。こういう武士どもが交代で都の警備にのぼることで、むろん旅費滞在費は自前である。大番の期間は三年が定めだから、この負担はおそろしいばかりのもので、三年の大番を済ませると、たいていの在郷武士の家計は底をついた。 |
p214
「おれは花咲かせてみせる。都にのぼり平家を倒し、源氏を再興する」
その大言壮語は、情婦の口から官辺に洩れた。
捨てては置けぬ、と追捕の手がかかった。十郎行家は山伏姿に身をやつし、熊野古道を軽々と逃げた。この男は変わり身早く、危険を躱すのが取柄であった。※文庫版(三)p58では「山伏姿に身をやつし、熊野古道を軽々と逃げた」以外を削除。 |
「おれにも、花が咲くわ。都へのぼり、源氏を再興するぞ」
と、行家はその女にうちあけた。行家は本来多弁で、堪え性がなく、つい肚のなかをひとに見せてしまう。女は聞くやおどろき、その兄にこの秘事を告げた。兄は大江ノ法眼といい、はやくから平家に名簿をささげ、その恩恵をうけている者だった。
――それは、捨ておけぬ。
と法眼が配下の山伏どもを行家の住いのある古館にさしむけ、大いに問責しようとしたときには、行家はすでにその館におらず、熊野川の渓谷ぞいの街道を、京にむかって足をいそがせていた。思いたつとかるがると行動する軽率さが、この男のとりえであったろう。 |
p302
比企尼の娘とその婿、安達藤九郎盛長夫妻などは、配所のそばに移り住み、衣食など一切の切りもりをした。
※文庫版(三)p141では固有名詞以外を書換。 |
比企ノ尼の娘とその婿安達藤九郎盛長夫妻などは、わざわざこの配所のそばに住み、妻は頼朝のために濯ぎや炊ぎの世話までしてくれた。 |
p303
人は頼朝を「世無し源氏」と呼び、もう世に出ることは無いと見做した。
※文庫版(三)p142では削除。 |
伊豆ではこの流人のことを、
「世に無し源氏」
と陰でささやいている、もはや世に出ることはないであろう。 |
p304
この時代、武士にとって最も大事なことは運命を託する人物を選ぶにある。平治の乱において、源氏ではなく平家の棟梁清盛に付いた源三位頼政がよき例であろう。殊に源氏は一族の結束が弱い、と言われた。辛うじて好意を示したのは、相模の平氏の家系である三浦・和田両氏と、下総の千葉氏ぐらいであったが、それとても積極的に参陣しようとせず、まず初戦の結果を見て、態度を決めようと、日和見に徹した。
まずは頼朝殿が手許にある兵で決起されよ、と言う。つまり平和的環境にある人物の評価はなし得ても、戦は別もの、寡兵で衆を討つ手並を見せてくれれば、こちらも起つ。そうした打算の上に立つ主従関係というのは、後世の主従関係とまるで違っていた。
※文庫版(三)p144では全行削除。 |
この時代、武士は盟主の人物をえらぶ。平治ノ乱のとき、武士どもが清盛を買って義朝を捨てたのが、そのよい例であろう。その点、頼朝と興亡を共にしようとむしろ積極的にいってくれたのは、三浦半島にいる三浦・和田氏と房総半島にいる千葉氏ぐらいのものであった。
その三浦、和田、千葉氏も、最初から兵を送ってきて参軍したわけではなかった。かれらは口にこそ出さないが、「まず佐殿、為され候え」という態度であった。まず手のまわりだけで挙兵なされよ。その成果を見、かつそのことによって頼朝の人物と行動が坂東武士のあいだに知れわたり、鑽仰されるようになってはじめてわれらも起つ、というものである。この点、戦国時代の主従関係とはまるでちがっている。 |
p308
定綱と高綱は一議に及ばず、搦手である裏門へ廻った。
折柄、中秋である。十七日の月は煌々と中天に輝き、あたりを真昼のように照らす。
その月光を浴びた経高は、箙の一矢を抜き取ると弓につがえてキリキリと引き絞り、母屋に向って放った。
矢は風を切って飛び、母屋の玄関の板戸を突き抜けた。
(これ、源家、平氏を征する最前の一の箭なり)
史書『吾妻鏡』にそうある通り、わずか三人の手勢の一人が、平家討伐の一矢を放ち、源平合戦が開始された。
※文庫版(三)p149では若干書換。 |
定綱、高綱の二人は裏門にまわった。十七夜の月が中天にかかり、あたりは昼のようにあかるい。次男経高はひとりで正面を担当し、塀をのりこえ、庭へとび下り、草の上に飛びおりざま背から矢をぬいてつがえた。弓をとっては兄弟のなかでも第一の精兵である。弦も切れよとひきしぼり、
ぶおっ
と、屋敷に向けて射放った。矢は音を立てて杉戸に立ち、杉戸を食い破って突きぬけた。
コレ、源家、平氏ヲ征スルノ最前ノ一箭ナリ。(吾妻鏡)
平家征伐の第一矢ということであろう。 |
p357
福原出陣に当り、清盛は総大将維盛と副将忠度を呼び寄せて、厳命した。
「戦は忠清(伊藤五)に委ねよ」
※文庫版(三)p210では「呼び寄せて」を削除。 |
このたびの出発にあたっても、維盛、忠度ら一門の者をよび、
「戦さは、かの男の宰領にまかせよ」
と、かたく命じた。 |
p358
忠度にとって、伊藤五の能力は、平治の昔はいざ知らず、頑固一徹に凝り固まり、手堅き事のみを尊重し、他の進言を拒むかのように思えた。
※文庫版(三)p210では削除。 |
忠度の見るところ、伊藤五の能力は清盛少壮のころにこそ輝いていたが、伊藤五も老い、老いてからは別人のようになっている。平家への忠誠心こそかわらないが、頑固で因循で手堅さのみを尊び、諸事ものごとが手ぬるい。 |
p359
殊に総大将維盛の見るも優美な装いと、薩摩守忠度の輝くばかりの軍装は、見送る都の者の語り草となった。
「絵に描くとも筆も及びがたし」と、当時の本にある。
だが、維盛には凶兆がつきまとった。
それは、深刻な飢饉である。
※文庫版(三)p212では「見送る都の者の」以降を書換。 |
総大将維盛の華麗な装いは、それを見送った都の者の語り草になった。(略)
「絵にかくとも及びがたし」
といわれたのは、その装束よりも維盛自身の容貌であった。
しかし維盛は、頼朝にくらべ、致命的な不運を背負わされていた。
飢饉である。 |
p360
昨年(治承三年)、長雨と冷夏のためひどい不作であった五畿内から山陽道は、更にこの年、前代未聞の凶作であった。(略)
その二ヵ年、皮肉にも尾張から以東は平年作であり、駿河では豊作であった。坂東の地に至っては、未曾有の豊作に五穀が満ち溢れ、「豊作貧乏」の様相を呈していた。
※文庫版(三)p208では「五畿内」以外の太字箇所削除書換。 |
近畿五州から山陽道――つまり平家の地盤ともいうべき京都近辺の諸国は、おそらく農業史はじまって以来かとおもわれるほどの凶作であった。去年、治承三年は西日本一帯に霖雨と夏の冷えがつづき、穀物はほとんど穫れなかった。(略)
奇妙なことに、西日本がこれだけの凶害に見舞われているというのに、駿河(静岡県)ではなんのこともなかった。ことに坂東平野は五穀が風にうねり、馬は肥え、西方とは別天地の観があった。 |
p360
「腹がへっては戦ができぬ」
美濃にさしかかる頃は、もはや秩序は無いも同然になり、村々を荒す野盗集団さながらとなった。
副将であり軍目付でもある伊藤五忠清は、この擾乱の群れを鎮圧するのに躍起となり、無思慮・無分別の言葉を口にした。
「東国へ行けば食い物は有り余っている」
そのひと言は、坂東出身の武士団に恐慌を来した。
――この餓鬼の如き大軍が、われらの領地を食い尽くす。※文庫版(三)p213では太字箇所大部分削除。 |
「飢えては、いくさができぬ」
とさわぎ、事実倒れる者もあれば、みちみち農家の蔵を襲う者も続出し、近江路をすぎたころは、もはや秩序はうしなわれ、軍勢というより、食糧狩りの飢民団のようになりはてて、なかには逃亡する者もある。参謀長の上総介忠清(伊藤五)はこの混乱をしずめるために、
「騒ぐな。東へゆけば、食がある」
と諸党を説得してまわらざるをえなかった。この言葉は逆効果になった。
(略)
ところが、この上総介忠清の不用意なことばは、かれら坂東人を驚かせた。
(この大軍に、わが坂東の荘園を食い荒らされてたまるか) |
p.361
追討軍は、日に日に数を減じた。と見て、坂東以外の族党も脱走する。伊藤五忠清は沿道の豪族に助力を説いて廻ったが、情勢を見るに機敏な豪族は一様に故障を唱え、応ずる者が無い。 ※伊藤五忠清=上総介忠清
※文庫版(三)p213では削除。 |
平家軍の人数は、日をかさねるごとに痩せてゆく。このため上総介忠清は行軍速度をにぶらせ、途中使者を四方に走らせては沿道の諸豪族に説いたが、みな仮病をつかい、従軍を拝辞した。 |
p362
――二十万は掛値だ。せいぜい五万か六万。
(略)だが五万の敵勢でも、痩せ細った追討軍では敵すべくもない。
※文庫版(三)p214では書換。
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「ざっと二十万騎」
という噂があった。むろん当の源氏の誇大に呼号している兵数であり、実数は五、六万騎ほどに相違ない。それにしても平家と人数が懸絶しすぎており、これでは戦さにならない。 |
p362
「こうなれば、撤退のほかありませぬ」
と、伊藤五は言った。
「戦わずして、敵に背を見せるのか」
厭だ、と面を朱に染めて、維盛は反対を唱えた。
(略)
――武士は、名こそ惜しけれ。
※伊藤五=忠清
※文庫版(三)p215では維盛紅潮の描写以外削除。 |
「こうとなれば撤退が上策でございます」
と、忠清はいった。
ただ総大将の維盛のみは、
「逃げるのか」
と驚き、「わしはいやだ」といった。維盛は小勢ながらもあくまでも戦い、武運なくばこの富士川の明媚な風光のなかで死せん、武士は名こそ惜しみたい、と泣くように言った。 |
p363
退却が進撃より困難であることは、誰もが知っている。それだけに論議は容易に決せず、とりあえず富士川に布陣し、後事を更に協議する事となった。
だが、その論議はすべて無用の事となる。崩壊の度を増す軍には、更に悲劇的な結末が近付いていた。
※文庫版(三)p215では太字箇所一部削除。 |
退却作戦は進撃戦よりもむずかしい。そのことで甲論乙駁があり、その夜のうちにはきまらなかった。しかしやがて来る運命が、そのことを無用にした。 |
p368
「平家か」
仮眠をとっていた頼朝は驚き慌てた。
本陣は俄かに騒がしくなった。
「何事ぞ」
やや暫くして、逃げ込んだ甲斐武田の者から委細を聞いた将が、駆け込んで報告した。
※文庫版(三)p222ではセリフ削除。 |
「平家か」
――ついに来襲したか、ととっさに頼朝はおもい、夜具を蹴って跳ね起きた。恐怖し、動転したといっていい。「何事ぞ」と叫び、人を呼び入れた。
前線の富士川東岸に滞陣中の甲斐源氏の棟梁武田信義から急使が来陣し、(略) |
p371
彼は遁走を焦る軍兵を鎮めて、数百の兵力を掌握すると、敵の出方を窺った。(略)
彼は悲愴感に酔う性癖があった。(略)
だが、攻撃命令は、遂に下らなかった。代わりに伝えられたのは、伊藤五忠清も遁走したという冷厳な事実であった。
忠度は自軍に火を放ち、残兵を率いて遁走の自軍を追った。
遂に尾張に達した時、彼の下には万を数える程の退却兵が集まっていた。
――もうこれ以上は、退却せぬ。
それが彼の美学だった。もし源氏の軍勢が攻めのぼってくれば、ここで死戦することによって富士川の恥を雪ごうと決意した。(略)
それがいま死戦を覚悟した忠度の真骨頂であった。
だが、薩摩守忠度の美学は味方にも敵にも通じなかった。頼朝の源家勢は遂に現われなかった。
忠度は京を避け、福原に戻るしかなかった。
※文庫版(三)p225ではこの周辺1p削除。 |
かれは兵を鎮めて軍を動かさず、闇中で自軍の様子を見ていたが、
「忠清も逃げた」
と知り、ついに陣小屋を焼き、兵をまとめて撤退し、尾張までひきあげたが、これ以上は退却しなかった。もし源氏が攻めのぼってくればここで死戦することによって富士川の恥を雪ごうとした。(略)
忠度の想念では、なかば吟遊詩人でもあるかのような甘美な悲愴をたのしんでいたのであろう。
もっとも薩摩守忠度の死戦の決意も、頼朝の追撃中止でむなしくなった。
忠度は京を避け、夜陰宇治へまわり、淀川へ出、山崎街道をとってほどなく福原に帰っている。 |
p372
純白の白旗であった。白一色の旗は源氏の印である。頼朝の許に集った源氏の流れを汲む坂東武士の中でも、この白旗を用いることができるのは、頼朝自身と、第二陣に配された甲斐源氏の武田氏だけである。甲斐源氏はかつて部門源氏の棟梁だった八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の後裔なるがゆえに、その光栄を持つ。
道に屯する将士は、いずれの御大将かと異口同音に囁き合った。
※文庫版(三)p227では数箇所に分解して書換。 |
白旗は源氏の将たる者の象徴であり、素性のあやしき者は用いることができない。軍中、頼朝以外でこの旗を用いているのは新羅三郎義光の家系である甲斐源氏の武田氏ぐらいのものであったが、武田氏は第二陣にあり、このあたりには来ていない。
「どこの御大将ぞや」
とみな首をひねった。 |
p374
「よせよせ」
と、言う。
空前の大勝利に、近国の流人や流浪の神主、旅僧までが何某の利にありつこうと頼朝の許を訪れた。
「多分、その同類だ」
※文庫版(三)p227では削除。 |
「よせ」
と、言下にいった。(略)
頼朝の勝利をききつたえて近国の流人や渡り神主どもまでなにがしかの利権にありつくために頼朝に面会を求めてくる。
「おおかた、それと同類であろう」 |
p374
「ずい分と、待たせますな」
「三郎、兄者はこの私の顔も知らぬのだ」
(略)
「後日改めて出直しましょう」
「いや、わしは待つ」
(略) わしは朝まで……いや、何日かけてもここで待つ」
※文庫版(三)p228では削除。 |
「遅いことでござりまするな」
「三郎。兄上は私をご存じない」
(略)
「殿。これでは仕方がありませぬ。こよいはいったんお宿までひきとりましょう」
「いやだ」
(略)おれは、朝まででもここで待つ」 |
p377
居並ぶ武将の過半は弟や妹婿、甥、従兄弟を伴っての参陣である。それに引替え頼朝は、身の廻りに一人の血縁もおらず、源氏の嫡流とは言え、平家の傍流北条氏の娘婿に過ぎない。
※文庫版(三)p232では削除。 |
かれを押し立てた北条、千葉、三浦の三氏以下、関東の大族小族はみなそれぞれ一族の連合集団を組んで頼朝の反政府行動に参加し、今夜、この勝利を一族のよろこびとしてどよめいているのに、頼朝の身辺はなお孤独な流人のかげがあり、尊貴の血をうけているとはいえ、その実体は北条氏の婿殿という他力本願のにおいをぬけきっていないのである。 |
p378
「ただ断っておくが、かの母常盤は、ただの雑仕女であった」
(略)頼朝は、またしても続けざるを得なかった。
「ではあるが、かの者の父は確かに我が亡父、頭殿である。丁重に扱ってくれい」
※文庫版(三)p229では削除。 |
「その路上の者はきっと九郎に相違ない。母はいやしき雑仕女ながら」
(略) ……頼朝はつづけた。
「さりながら、亡父頭ノ殿(義朝)の御わすれがたみに相違なく、かつわがまぎれもなき庶弟である。疎略にせず、これへ案内して参られよ」 |
p382
人々は、こぞって義経を「御曹司」と呼んだ。
曹司とは、宮中に設けられた上級の官人や女官の部屋を指す。転じて、まだ独立していない部屋住みの貴人の子息を意味するようになった。幼名牛若、長じて九郎義経には位階・官職が無い。ために呼称した<御曹司>は彼の尊称にぴったりの華やかさを伝えて、人々の心を打った。
土肥実平や岡崎義実らは、争って義経の馬の轡を取った。
※文庫版(三)p232〜235に分解し、一部削除・書換。 |
義経の足もとを、土肥実平、岡崎義実らの坂東で錚々たる大農場主が、まるで奴のごとくみずからたいまつをとって照らし、いんぎんに先導した。
「御曹司よ、御曹司よ」
と、ひとびとは口々に叫びあった。曹司とは、御所の官人・女官の部屋のことをいう。御曹司とは貴人の子弟で部屋住みの者をさす。九郎義経には通称としてよぶべき官名がなかったから、期せずしてこのよびかたが、この若者の尊称になった。 |